もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
北朝鮮の平壌空港に着いた日本記者団。左から2人目が筆者(1968年9月3日)
新聞記者には、時として妙に“ついている”時があるようだ。私の場合は、一九六八年(昭
和四十三年)がそうだった。この年一月には、米原子力空母エンタープライズの佐世保入港
反対闘争を取材中に警備の警官隊に警棒で乱打されて負傷、五月には出張先の青森県で
「十勝沖地震」に遭遇した。加えて、九月には思いがけない取材を体験することになる。朝鮮
民主主義人民共和国(北朝鮮)行きである。
高度を下げつつあったアエロフロート(ソ連=ロシアの前身=の国営航空会社)の旅客機
が、すべるように滑走路に降り立ち、しばらく滑走して静かに止まった。六八年九月三日午
後七時過ぎ、北朝鮮の平壌空港。窓から外を見ると、すでに薄暗い。コンクリートで覆われ
た平坦地が広がる。人影は見えない。「ついに知られざる国、北朝鮮の地を踏むことができ
たか。これから先、どんなことに出合うのだろう」。その時、私をとらえていたのは、とりあえず
の安堵感と好奇心と緊張感が入り混じった気持ちだった。
私たち日本記者団四人が後部座席に座っていると、乗り込んできた若い軍服姿の男が私
たちにパスポートの提示を求めた。国境警備隊だろうか。差し出すと、男は一人ひとりのそ
れを点検する。その間、男は無言。なぜか、非常に長く感じられ、不安がよぎる。と、男は何
も言わずにパスポートを返してくれた。思わずホッとする。
私たちは、乗客の一番最後にタラップを降りた。すると、ピンクと白が鮮やかなチマ・チョゴ
リの民族衣装を着た少女四人が寄ってきて、私たち一人ひとりに花束を手渡した。それまで
新聞記者として花束などもらったことがなかったので、一瞬、戸惑ったが、「これは歓迎のし
るしなのだ」と思うと、私の中で不安感が消え、心がなごんだ。
私たち日本記者団が東京・羽田(当時は成田空港はまだなく、羽田が国際空港だった)を
発ったのは八月三十一日の夜十時三十分である。アラスカのアンカレジ経由の北回りでヨー
ロッパへ向かった。当時はソ連上空を経てヨーロッパに向かう航空路はなく、ヨーロッパに行
くには北回り、南回りのどちらかを利用せざるをえなかった。九月一日の朝九時二十分、デ
ンマークのコペンハーゲンに着き、そこで半日過ごした後、午後三時十五分発の航空機でソ
連のモスクワへ。夜九時十五分にモスクワ空港に着くと、モスクワ市内に一泊、九月二日夜
七時四十五分モスクワ発の航空機で平壌に向かい、翌三日の夕方に平壌に着いた。羽田
を出発してから実に六十九時間の旅であった。羽田から平壌直行ならばジェット機で約二時
間。それがかなわないために、私たちは四日がかり、いわば地球を一周して隣国・北朝鮮に
たどり着いた。
どうしてこんな旅になったのか。それは、日本と北朝鮮の間に国交がなかったからである
(このことは三十八年後の今も変わらない)。国交がなかったばかりでない。両国は非友好
的な関係にあった。
第二次大戦における日本の降伏により、それまで日本の植民地であった朝鮮半島に二つ
の国家が生まれた。緯度三十八度線を境にして南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義
人民共和国(北朝鮮)である。「南」は自由主義陣営に、「北」は社会主義陣営に属し、いわ
ば分断国家であった。南北対立が険しさを増す中、一九五〇年には南北間で朝鮮戦争が勃
発する。米国が主導する国連軍が「南」を支援し、一方、中国が「北」をバックアップし、東西
両陣営対決の様相を呈する。
戦争で失われた人命は三〇〇万から四〇〇万と推計されている。北朝鮮側の死者は民間
人二〇〇万人以上、軍人約五〇万人。これに中国軍人約一〇〇万人が死亡。一方、韓国
側は民間の死者が約一〇〇万人、軍人の戦死者は四万七〇〇〇人。米軍兵士の死者は
五万四二四六人、その他の国連軍の死者は三一九四人とされている(B・カミングス、J・ハ
リディ『朝鮮戦争――内戦と干渉』、岩波書店刊)。日本は、疲弊していた戦後経済が朝鮮戦
争による“特需”で立ち直ったとされる。
朝鮮戦争は一九五三年に休戦協定が成立するが、それからまもない一九六五年、米国政
府からの強い要請もあって日本と韓国は日韓条約を結んだ。日本は分断国家の一方のみと
国交正常化を果たしたわけで、このことは北朝鮮の強い反発を招き、日朝関係は悪化の一
途をたどった。日本政府は未承認国である北朝鮮への渡航を禁止したから、両国間の人的
交流はほとんど途絶えた。報道関係も例外でなかった。いわば、北朝鮮は当時、日本国民
にとって「最も遠い国」であった。マスコミにとっては、なかなか足を踏み入れることができな
い「秘境」であった。
そんな状況の中で、私たち日本記者団が平壌空港に降り立つことができたのは、ひとえに
日本共産党の尽力による。
この年五月一日、共産党を担当する報道各社の記者によって「共産党記者クラブ」が創設
された(共産党記者クラブ創設の経緯は、本シリーズ第50回「共産党取材事始め」に書いた
ので、これを参照されたい)。
それからまもない同年八月十九日、宮本顕治書記長を団長とする共産党代表団が、北朝
鮮に向け出発した。団員は内野竹千代・幹部会員候補、不破哲三・書記局員候補、松本善
明・衆院議員、立木洋氏。
このころ、日本共産党と北朝鮮の朝鮮労働党とは極めて友好的な関係にあった。それは、
それより二年余前の一九六六年に日本共産党代表団がおこなったベトナム共産党(北ベト
ナム)、朝鮮労働党、中国共産党の三党への歴訪が、日本共産党と朝鮮労働党のきずなを
強める結果となったからだった。
当時は、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた。しかし、米国及び南ベトナムと戦う北
ベトナムと南ベトナム民族解放戦線が頼みとする社会主義陣営は、二大巨頭のソ連と中国
が対立、抗争していた。世界の共産党・労働者党は中ソどちらかにつくことを余儀なくされ、
苦しんでいた。その中で、中ソどちらにもつかない中立の立場をとっていたのが日本、ベトナ
ム、朝鮮の党だった。
そんな構図の中で、社会主義陣営の団結を最優先すべきだと考えた日本共産党は、宮本
書記長を団長とする代表団を北ベトナム、北朝鮮、中国へ派遣した。目的は、ベトナム支援
の国際統一戦線の構築を呼びかけるためで、宮本代表団は行く先々で「ソ連も国際統一戦
線にふくめよう」と主張した。北ベトナムと北朝鮮の党との間では合意に達したが、中国では
毛沢東主席が、米国とソ連を共同の敵とする路線を主張、ソ連を含めて全世界の反帝勢力
の団結をはかる考え方に反対した。かくして日中両党会談は決裂する。
これを機に日中両党の関係は急速に悪化する。やがて両党関係は断絶するのだが、日本
共産党によると、六七年八月、帰国の途についた、日本共産党を代表して北京に駐在して
いた砂間一良幹部会員候補と「赤旗」特派員が北京空港で集団リンチを受けた。北朝鮮の
平壌に着いた二人を手厚く看護したのが朝鮮労働党だった(日本共産党中央委員会『日本
共産党の七十年』上)。
中朝両国は隣国同士。しかも、中国は大国。その中国のけんか相手を中国のすぐ目の前
で手厚く看護するという行為はおそらく勇気のいることだったにちがいない。
いずれにせよ、これを機に日朝両党は友好を深める。このため、共産党記者クラブの面々
は、「北」に向かう宮本書記長に「日本の記者団を入れるよう金日成首相に伝えてほしい」と
頼んだのだった。
頼んでみたものの、記者団の訪朝が実現するなんて、本気で期待していた者はほとんどい
なかった。が、なんと、共産党を通じて「日本記者団を受け入れる」という朗報がもたらされた
のである。
北朝鮮は、この年九月九日に建国二十周年を迎えることになっていた。その慶祝行事に
日本記者団を招待する、というものだった。その後の詳しいいきさつは覚えていないが、とに
かく、訪朝する記者の顔ぶれが決まった。共同通信が横田球生記者(後に株式会社共同通
信社常務取締役、故人)、毎日新聞が志位素之記者、読売新聞が飯塚繁太郎記者(後に政
治評論家・日大教授)。いずれも政治部員で、共産党記者クラブの創設メンバー。
さて、「朝日」の場合はどうなったかというと、その時の共産党記者クラブ員は政治部の松
下宗之記者(後に社長。故人)と社会部の私だったが、松下記者が「君は社会部で在日本朝
鮮人総連合会を担当しているようだから、この際、彼らの本国を見てきたら」と、北行きを私
に譲ってくれた。団長は共同通信の横田記者と決まった。
九月九日までに平壌に着かなくてはならない。あまり時間がない。だから、準備のため慌た
だしい日々が続いた。そして、私たちは八月三十一日夜、羽田発の日本航空機に搭乗し、
乗り継いだ果てに九月三日夕方、平壌にたどりついた。
北朝鮮が初めて日本記者団を入国させたのは、一九五九年十二月、北朝鮮に帰還する
在日朝鮮人の第一陣が平壌に到着した時である。「朝日」では社会部の入江徳郎記者と写
真部員が平壌入りしている。その時、記者たちは香港まで空路、その後、陸路を中国経由で
平壌入りしている。
私たちの平壌入りはそれ以来のことで、北朝鮮としては九年ぶりに日本記者団を受け入れ
たのだった。
とにかく、「秘境」に行くのだからと、私は装備の面で欲張った。大きめのスーツケースにシ
ョルダーバッグ。カメラ二台に八ミリ映写機。テープレコーダーにタイプライター。よくもこんな
に持って出られたものだと思う。とくにタイプライターはずしりと重く、途中、なん度、海中にで
も投げ捨ててしまいたいと思ったことか。それでもこれらを携行して旅を終えることができた
のは、やはり若かったからだと今にして思う。 (二〇〇六年三月二十三日記)
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