もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
中国共産党機関紙「人民日報」に反撃する日本共産党の論文を掲載
した同党機関紙「赤旗」。一面全面つぶしても足りず、二面に続く
(1967年3月19日付)
「一枚岩の団結」「鉄の規律」
共産党について語られる時、必ずついて回った語句だ。私が大学生、次いで駆け出し記者
だった一九五〇年代のことである。大学の先輩は私にこう語ったものだ。「共産党は敵と闘う
ために何よりも党内の結束、団結を最優先にしているんだ。党内が乱れていると、敵に乗ぜ
られるからな。そのために、党員には党の方針には無条件で従えという厳しい規律を求めて
いるんだよ」。その先輩は当時、あるいは党員だったかもしれない。
「一枚岩の団結」。それは国内の党組織ばかりでなく、各国の共産党間でも貫徹している原
則だと、その先輩は言った。つまり、国際共産主義運動でも貫徹されるべき原則とのことだ
った。「各国の共産党は、もともとコミンテルン(共産主義インターナショナル)の支部として創
立されたものだし。共産党のスローガンも言っているじゃないか。万国の労働者!団結せよ
と」
そんな経験があったものだから、社会主義国同士のソ連と中国がけんかを始めた(いわゆ
る「中ソ論争」)と聞いたとき、とても信じられなかった。これは米国政府による謀略宣伝にち
がいない、と思ったほどである(後になって分かったことだが、一九五七年ころから、両国共
産党間で意見の対立が始まっていた)。
したがって、共産党取材を始めた一九六六年(昭和四十一年)九月、日本共産党と中国共
産党が対立関係にあると知った時、とても驚いた。にわかに信じられなかった。なにしろ、共
産党同士は「一枚岩の団結」で堅く結びついているに違いないしと思っていたし、ましてや日
本共産党が日本帝国主義の中国侵略には一貫して反対したこともあって日中両党は戦前
から深い付き合いがあり、戦後もとても友好的な関係にあったからである。このころ、日中両
国はまだ国交を正常化しておらず(正常化が実現したのは一九七二年)、中華人民共和国
成立以来、日中両党を結ぶパイプが、日中友好を促進するうえで重要な役割を果たしてきた
と言ってよかった。
それは、私が担当することになった「民主団体」の分裂という形で表面化した。
まず、日中友好協会がこの年十月二十五日開かれた常任理事会で、日本共産党支持派
の「日中友好協会」と中国支持派(日本共産党から除名されたり、離党した人たちや社会党
左派が中心)の「日中友好協会正統本部」に分裂した。
次いで、日本アジア・アフリカ連帯委員会でも、中国支持派と日本共産党支持派が対立し、
中国支持派が脱退して「アジア・アフリカ人民連帯日本委員会」を結成。また、日本ジャーナ
リスト会議では、小林雄一議長と一部会員が脱退して「日本ジャーナリスト同盟」を結成し
た。日本共産党系とみられていた新日本婦人の会でも、両派が対立、中国支持派が飛び出
した。
さらに、大衆団体ではないが、中国系の通信社が日本共産党系の社員を解雇したり、別
の通信社で中国支持派の社員が退社して別の通信社をつくるといった騒ぎが続いた。社団
法人中国研究所は、平野義太郎・前理事長ら九人の所員を「反中国的な行動があった」とし
て除名した。
日中貿易にも波及し、日本共産党系の商社の北京駐在員が中国側から退去を求められ
た。つまり、日中貿易から閉め出されたのだった。
事態はさらに“事件”にまでエスカレートする。
一九六七年三月一日から二日にかけて、東京都文京区の善隣学生会館で、在日中国人
学生と日本共産党支持の「日中友好協会」系の人々が衝突、双方にけが人が出た。騒ぎは
警視庁機動隊が出動したことで収まった。
同会館は在日中国人学生の住居や日中友好団体の施設として使われていたのだが、会
館の一角に「日中友好協会」の事務局があったことが騒ぎの原因。中国人学生側が「中日
友好を妨害するものが会館にいることは道理に反する」との壁新聞を張り出すと、協会側が
撤去を要求し、激しくやり合った。その後、籠城中の協会員に連絡を取ろうとした日本共産
党系の集団と、これを阻もうとする中国人学生が、竹ザオや鉄棒で乱闘、重軽傷者三十人
を出す惨事となった。
「日中友好協会正統本部」は「これは反中国活動を強化している日本共産党の計画的、組
織的な暴力である」との声明を発表すれば、「日中友好協会」は「中国人学生と、これに盲従
する日中友好協会の脱走分子が事務局に押し入り、事務局員を不法監禁し、暴行を加えた
のが真相」と反論、対立は深まった。
善隣学生会館にも取材に行った。かつて親密な友好の絆で結ばれていた「日中」の関係者
が険しく敵対しているのを見て、なんとも気が重かった。
民主団体の分裂や、善隣学生会館事件は、いわば前哨戦だった。これを機に日中両党
は一気に公開論争に入る。善隣学生会館事件から一週間後、中国側の北京放送と人民日
報は「日共修正主義分子は善隣学生会館になだれこみ、華僑青年と日本の友人を殴打する
流血事件をつくりだした」「事件は完全に日共修正主義分子が計画的、組織的につくりだした
もの」と非難。これに対し、日本共産党側も「事件は中共の極左日和見主義、大国主義分子
による計画的、組織的な干渉と破壊活動のしくまれた一環」と反論した。ちなみに、当時、中
国では「文化大革命」が始まり、紅衛兵の登場とその行動が世界の注目を集めていた。
その後も日中の応酬が続き、この年八月には、日本共産党が北京に駐在していた同党代
表と「赤旗」特派員を帰国させる。同党の発表によると、その際、二人は北京空港で紅衛兵
らから集団暴行を受けたという。かくして、両党関係は完全に断絶する。
論争の中で、中国側が日本共産党をアメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本反動派と並
ぶ「四つの敵」の一つと規定するに至る。一方、日本側は「(中国の)毛沢東一派は、わが党
と日本の民主運動をかれらの大国主義的支配下におき、日本国民の運命をかれらのもくろ
みに従わせようとする野望があった。毛沢東一派の大国主義的野望は、新植民地主義の一
種であり、さしずめ“社会植民地主義”とでもいうべきもの」(一九六八年四月五日付「赤旗」)
と断じた。
両党による論争はまことに激しかった。まさに、「すさまじい」の一語に尽きた。原理原則を
重視する共産党同士のけんかだからか。それとも、人間の世界では、それまで親密な関係
にあった者同士がいったん不仲になると、それまでの友好関係が深ければ深いほど、相手
方への憎しみも深いものなのか。そんな思いに駆られたものだ。
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