もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
日本共産党創立45周年記念招待会で(左から茨木良和・書記局員候補、
1人おいて市川正一・書記局員、林百郎・代議士、筆者。1967年7月15日、
東京都文京区の椿山荘)
一九六六年(昭和四十一年)九月、社会部で特捜班が発足し、その一員に指名されて
民主団体担当になった私は、東京・千駄ヶ谷にある共産党本部を訪ねた。民主団体とともに
共産党もフォローするよう命じられたからだ。「こんど、共産党を担当することになったからか
らよろしく」とあいさつするつもりだった。
みるからに古い木造の二階建て。その玄関を入ると、来客用の待合室のようなやや広い
部屋があった。受付で来意を告げると、受付にいた本部勤務員らしい人物がけげんそうな顔
をした。一般紙の記者が訪れてくるのは珍しかったにちがいなく、それに政治部記者ならとも
かく、社会部の記者なので不審に思われたのかもしれない。
随分待たされた。トイレに行きたくなったので、トイレのありかを聞いて入ると、本部勤務員
らしい男性が私についてきた。私が立って用をたしている間中、男性も用をたすふりをしてい
た。いや、実際に用をたしていたかもしれない。いずれにしても、その男性の動作から、私は
彼に監視されているように思われた。
このころの共産党が党外の人に抱いていた警戒心の一端をみた思いだった。党創立以
来、この党が受けてきた過酷な「弾圧の歴史」が、同党をして外部に対し極度の警戒心を抱
かせるに至ったのだろうと、私は思った。
最初の共産党に関する取材は、第十回大会の取材だった。
大会はこの年十月二十四日から三十日まで、東京の世田谷区民会館と大田区民会館で
開かれた。大会初日のみ報道陣に公開され、また、毎日、党による記者会見があった。各
社の記者が連日つめかけた。「朝日」からは政治部の記者と私が会場につめた。
大会の模様を伝える本筋の記事、すなわち「本記」は政治部記者が書いたが、私にも出番
が回ってきた。大会三日目の二十六日、大会場の世田谷区民会館に盗聴器が仕掛けられ
ているのが発見されたからだ。「これは米日反動勢力のスパイ活動であり、民主主義の権利
をおかすものだ」と、大会は総理大臣、警察庁長官などにあてた抗議を決議した。ところが、
二日後にもまた盗聴器が見つかり、騒ぎが広がった。私はこれらの事件を記事にした。これ
らの犯人は結局、判らずじまいだった。
大会後、大田区民会館に近い料亭の池上苑で記者会見があった。大勢の報道陣がつめ
かけた。会見に臨んだのは野坂参三議長、宮本顕治書記長と岡正芳、土岐強、浜武司の各
中央委員。専ら宮本書記長が話し、質問に答えた。
がっしりとした体躯。いかつい顔。ぶっきらぼうな口調で、にこりともしないで、必要なことだ
けを論理的に語る。いかにも精力的で、一度こうと決めたらてこでも動かない頑強な意志の
持ち主といった感じ。敵にまわしたら手強いだろうな。それが、宮本書記長から受けた印象
だった。当時、五十八歳。
「この人物が宮本顕治か」。初めて宮本書記長の風貌に接した私は、大いに関心をそそら
れた。
一九五〇年代に学生運動にかかわった者なら、当時、「宮本顕治」という名前を聞くと、共
産党員や共産党シンパでなくても、畏敬の念かそれに近い感慨を覚えたはずだ。そのころ、
世間に知られた共産党の指導者といえば、徳田球一、野坂参三、志賀義雄、宮本顕治氏ら
だったが、学生や知識人の間では宮本氏の声望がとみに高かった。
それには、理由があった。まず、戦前、プロレタリア文学運動での著名な文芸評論家であ
ったことだ。戦前の一九二九年(昭和四年)、総合雑誌『改造』が文芸評論の新人を発掘しよ
うと懸賞募集を行った。三百余編の応募の中から一等に選ばれたのが『「敗北」の文学』で、
筆者は当時、東大経済学部在学中の宮本氏だった。当時、二十歳。二年前に自殺した作
家・芥川龍之介を論じたものだった。ちなみに、二等は、後に「批評の神様」と言われるよう
になる小林秀雄の『様々なる意匠』であった。
第二は、「非転向の闘士」であったこと。宮本氏は一九三一年に非合法下の共産党に入
り、天皇制打倒、侵略戦争反対のために活動するが、一九三三年、スパイ査問事件にから
んで逮捕、投獄される。が、黙秘、非転向を貫き、日本敗戦にともない、一九四五年に釈放
される。実に獄中十二年。この間の、獄外の、妻で作家であった宮本百合子との往復書簡
は戦後、『十二年の手紙』として刊行された。拷問を伴う厳しい取り調べに転向を余儀なくさ
れた党員も少なくなかっただけに、「非転向・宮本顕治」は左翼陣営では際だった存在として
注目を集めた。
それに、いわゆる「五〇年分裂」で共産党が「所感派」(主流派)と「国際派」(反主流派)に
分裂したとき、宮本氏が「国際派」のリーダーだったことである。この分裂で、学生組織も二
派に分かれた。学生組織の全国組織である全学連の中央グループ、東大、早大、都立大、
法政大、中央大などの各大学細胞が「国際派」にはせ参じた。これらのグループ、大学細胞
には宮本氏を信奉する党員が多かったからと思われる。一九五五年の第六回全国協議会
(六全協)以後は、宮本氏らの国際派が党の主導権をにぎる。
というわけで、五〇年代以降、宮本氏は学生や知識人の間ではすでに伝説的な人物であ
った。
この時の記者会見での宮本発言で忘れられない発言がある。報道陣からの最後の質問だ
ったと思うが、こんな質問が飛んだ。「一九七〇年の日米安保条約改定期を革命の高揚期と
みる見方があるが……」。私と同じ「朝日」の社会部からきていた、警察庁記者クラブ詰めの
記者からの質問だった。
宮本氏の答えはこうだった。「革命は予め時間を決めてやるものでないし、またできるもの
でもない。国民大衆の大部分がいまの政府に不満を持ったとき、初めて革命への条件が出
てくるのだ」
今からみれば、なんだごく当たり前のことをいったに過ぎないではないかと思われるだろう
が、当時としては新鮮に思えた。六全協から十一年もたっているとはいえ、「五〇年分裂」直
後の同党の極左冒険主義に基づく火炎びん闘争の記憶はまだ完全に払拭されていなかっ
たからである。私は思った。「宮本体制」の同党は、今は決定的な対決の時期ではないと考
えているな、むしろ、極めて長期的な展望の中で革命を考えているな、と。
では、共産党が目指す革命とはどんなものだろうか。宮本書記長が主導して作り上げたと
される党綱領(一九六一年の第八回大会で採択)を読んでみた。そこには「日本の当面する
革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配――二つの敵に反対するあたらしい民
主主義革命、人民の民主主義革命である」とあり、「国会で安定した過半数をしめることがで
きるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに
有利にすることができる」としていた。
私の記憶では、この議会重視の方針は第十回大会以後、一気に強められてゆく。そのた
めだろう、党を挙げて「党勢拡大」への取り組みが強化されていった。その中で重視されたの
が、党の路線、政策を広く大衆に知らせること、すなわち、「大量政治宣伝」だった。
そのための最大の武器は、もちろん、自らの党機関紙「赤旗」だったが、一般のマスコミを
“活用”することにも積極的になって行ったように思う。「赤旗」紙上から「ブル新」という呼び
方が姿を消した。代わって「一般新聞」あるいは「商業新聞」という呼び方が登場した。
一九六七年五月からは、宮本書記長による定例記者会見が始まった。月一回、党本部で
行われた。ただ、警察担当の記者だけはオミットだった。
そして、一九六八年五月一日には、共産党取材の拠点として「共産党記者クラブ」が創立さ
れた。党本部内にクラブ室が設けられた。クラブ創立に動いたのは共同通信政治部の横田
球生(後に株式会社共同通信社常務取締役、故人)、毎日新聞政治部の志位素之、読売新
聞政治部の飯塚繁太郎(後に政治評論家・日大教授)、朝日新聞政治部の松下宗之(後に
社長。故人)の各記者と私。それに東京新聞政治部記者もいたが、氏名を思い出せない。党
側の窓口は宣伝部(のちに広報部と改称)。
このころ、新聞記者の間で強くなってきていた「共産党を、公安情報に頼ることなく、じかに
取材したい」という思いと、「そろそろマスコミともちゃんと付き合おうか」という党側の思惑と
が一致し、それが記者クラブ誕生をもたらしたと言っていいだろう。
この共産党記者クラブは、その後、思わぬ副産物を生む。
|
|
|
|