もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第52回 自主独立路線に至る道


自主独立路線を確立した日本共産党の第10回大会。中央委員会報告をする
宮本書記長(1966年10月24日、東京・世田谷区民会館で)=日本共産党中央
委員会発行の「前衛」1966年12月臨時増刊号から




 それにしても、友好関係にあった日中両国共産党がなぜ関係断絶に至ってしまったのだろ うか。その背景には、中ソ対立とベトナム戦争が濃い影を落としていたと言っていいだろう。

 社会主義陣営の二大巨人、ソ連と中国の団結にひびが入ったのは一九五七年(昭和三十 二年)ころと言われている。仲が悪くなった原因は核問題だったとされる。その後、中ソ関係 は極秘のベールに包まれたまま悪化の一途をたどる。
 一九六〇年にはモスクワで八十一カ国共産党・労働者党代表者会議が開かれ、国際共産 主義運動の方向を示す「モスクワ声明」が採択された。ここでも中ソの意見の違いが露わに なり、「声明」そのものが中ソの妥協の産物だった。
 が、対立はこれでも収まらず、翌六一年のソ連共産党大会でフルシチョフ第一書記がアル バニアの指導者を「わが党の路線に反対した」と非難、これを不満とした中国共産党代表の 周恩来副主席が席を蹴って帰国する。これにより中ソの対立が初めてだれの目にも明らか になった。
 その後、論争は:激化する。テーマも、戦争は可避か不可避か、核兵器、帝国主義との闘 争、平和共存、社会主義への移行の形態など、国際共産主義運動のあり方にかかわるもの となってゆく。その結果、ついに中国共産党がソ連共産党指導者を「修正主義者、分裂主義 者」と決めつけ、一方、ソ連共産党は中国共産党指導部を「小ブルジョア的、民族主義的、 ネオ・トロツキスト的偏向」とやり返す。世界は対決の激しさに驚き、国際政治が不安定にな るのではないかとおそれた。
 
 こうした中にあって、各国の共産党・労働者党は中ソどちらかにつくことを余儀なくされた。 中国派とソ連派に分かれさせられたのだ。しかし、ベトナム共産党、朝鮮労働党(北朝鮮)、 日本共産党などごくわずかの党は、どちらにもつかず、中ソ論争に「不介入」の態度をとり続 けた。
 しかし、その日本共産党も中ソ論争の激浪に巻き込まれる。
 きっかけは部分的核実験禁止条約問題だった。この条約は一九六三年八月に米英ソ三 国により調印されたもので、大気圏内の核実験を禁止するものだった。地下核実験は除外 していた。中国は条約反対を表明。日本共産党も反対を決めた。
 なのに、ソ連共産党が日本共産党に条約支持を求めたことが、両党の対立を招いた。そ のころ、私はまだ共産党の取材を担当していなかった。後年、日本共産党の西沢富夫・常任 幹部会委員は私に語ったものだ。「ソ連側が条約への支持を、わが党とわが国の民主運動 に押し付けてきた。これが、両党の関係が悪化した原因だった」
 両党会談が行われたが、もの別れとなった。ところが、一九六四年五月、衆院本会議で同 条約批准案の採決があり、共産党議員のうち志賀義雄議員(当時、幹部会員)だけが党の 決定に従わず賛成票を投じた。その夜のモスクワ放送は志賀議員の声明を放送。これに対 し、日本共産党は中国に滞在中だった宮本顕治書記長が急きょ帰国し、中央委を開いて志 賀議員と、参院で賛成投票すると表明した鈴木市蔵・幹部会員を除名処分とした。
 これを機に、日ソ両党は公開論争に入る。ここに両党の関係は断絶する。このあおりで日 ソ協会が分裂し、ソ連支持派は日ソ親善協会を発足させる。両党が和解するのは、四年後 の一九六八年二月のことである。

 一方、日中両党の対立のきっかけは、ソ連をベトナム支援の「反帝国際統一戦線」に加え るかどうか、をめぐってだった。
 当時はベトナム戦争が激化しつつあった時期。ベトナムは南北ベトナム両国に分かれてい て、南ベトナム解放を目指す南ベトナム民族解放戦線と、それをバックアップする北ベトナム が、アメリカと南ベトナム政府を相手に戦っていた。一九六五年には、米軍機による北ベトナ ム爆撃が始まり、ベトナム戦争はさらに拡大の一途をたどる。「中ソ論争」下にあったソ連も 中国も、それぞれ別個に北ベトナム・南ベトナム解放戦線への本格的な援助に乗り出した。
 日本共産党は六六年二月から四月にかけて、宮本書記長を団長とする代表団を北ベトナ ム、中国、北朝鮮へ派遣した。目的は、ベトナム支援の国際統一戦線の構築を各党に呼び かけるためだった。その国際統一戦線の陣立てについては「ソ連がアメリカの侵略に反対 し、ベトナムを支援する立場にたつならば、ソ連を国際統一戦線、統一行動にふくめるのは 当然」(日本共産党中央委員会出版局が二〇〇三年に発行した『日本共産党の八十年』)と の立場に立っていた。
 ベトナム共産党、朝鮮労働党(北朝鮮)との間では合意に達したが、中国側とは合意に達 しなかったばかりか、公然対立を招くことになる。
 『八十年』によると、中国の党との会談では、まず劉少奇を団長、ケ小平を団員とする代表 団が出てきて、米国とソ連を共同の敵とする路線を主張し、ソ連を含めて全世界の反帝勢力 の団結をはかる考え方に反対し、意見の一致はえられなかった。が、その後、中国側から共 同コミュニケを作成したいとの提案があり、再度、会談が行われた。この時、中国側の代表 団長は周恩来に代わっていた。会談の結果、一致点にもとづく共同コミュニケが作成され た。
 ところが、三月二十八日、帰国直前の日本共産党代表団と会談した毛沢東が、共同コミュ ニケがソ連を名指しで批判していないことなどをあげて、共同コミュニケやそれに同意した中 国側の会談参加者を非難し、コミュニケの書き換えを求めた。日本側はこれに同意せず、反 論。その結果、共同コミュニケは毛沢東によって破棄されたという。
 後年、宮本書記長の口から、会談の内幕を聞いたことがある。一九六八年六月五日の記 者会見での席だ。「最終段階になって毛沢東からいちゃもんがつき、だめになった。毛沢東 の方が、何もなかったことにしてくれ、といった。共産党代表会談では前例のないことであ る。周恩来は小回りがきく。変わり身の早い男だ」
 この会談に同席した日本共産党代表団の一人によると、会談の席上、毛沢東は「北京の 連中は軟弱だ」と述べたという。この日、毛沢東は「資本主義復活の道を歩む実権派打倒」 の名のもとに紅衛兵を動員して党と政府の指導部を転覆し、毛沢東派の専制支配を目指す 闘争を始めた。その後中国を十三年にわたって動乱の巷と化す「文化大革命」の発動であっ た。
 当時、この会談決裂の事実は公表されず、両党とも沈黙を守っていた。しかし、やがて、こ の会談決裂――意見の対立が、原水爆禁止運動や日中友好運動、日中交流の舞台で噴き 出し、ついには両党による公開論争、関係断絶へと進んでいった。

 「世界の数ある共産党の中ても、ソ連と中国という二つの大きな党と正面きってけんかした のはわが日本共産党だけ。弱い党だったら、とうにつぶされていますよ」。当時、「赤旗」記者 だった党員が私にもらした感想だ。
 毛沢東との会談が決裂してから約七カ月後、中国共産党との対立がまだ公然化していな かった一九六六年十月に開かれた日本共産党第十回大会は、党規約を改正して「すべての 党員は……日本革命に責任を負う自主独立の党、その一員としての立場を堅持し」との新 たな一節を加えた。いわば、同党として自主独立路線を明確にしたといってよかった。以後、 新聞記者の間では「日本共産党は第十回大会で、他の国の共産党の言いなりにならない自 主独立路線を確立した」と言われるようになる。

 日中両党の対立と断絶は日中友好運動に深刻な影響をもたらした。両党の関係が正常化 されたのは一九九八年(平成十年)のことである。宮本・毛沢東会談以来、実に三十二年ぶ りのことだった。                                           





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