もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第45回 事件記者落第


くたびれ果てて……。警視庁記者クラブでの
筆者(1965年)




 警視庁記者クラブで一課(捜査一課)担当を命じられていた私は、一九六五年(昭和四十 年)五月、防犯担当に代わった。一課担当はわずか六カ月に過ぎなかった。この間、いくつ かの殺人事件はあったが、記憶に残るような大事件に出合うことはなかった。
 ストレートに一課担当から防犯担当になったわけではなかった。五月の連休明けに警視庁 記者クラブに出勤すると、キャップに「君には、こんど、公安担当をやってもらうことになった から」と告げられた。
 「他の担当に代えていただけませんか」と、私は即座に言った。公安担当だけは避けたい なと思っていたからだ。公安担当とは、警視庁公安部の捜査を報道するのが仕事である。大 学在学中、学生運動に加わっていた私としては、そのころ、公安警察になじめないものを感 じていたので、そこを仕事で担当することに気が進まなかった。それに、先輩記者の例をみ ると、いったん公安担当になると、その在任期間がとても長かった。それだけに、「公安担当 を長くやらされるのはかなわんな」という気持ちもあった。
 「もう決まったことだから」と、キャップは私に翻意をうながしたが、私がなおも「他に代えて いただませんか」と粘ると、キャップは「そんなに嫌か。なら、防犯担当だ」と言ってくれた。
 社会部員になって、私が上役から指示された部内異動(部内の配置換え)に異議を唱えた のは後にも先にもこの時だけだ。

 警視庁防犯部には、当時、防犯課、保安課、麻薬課、少年一課、少年二課などがあった。 密輸などの経済事犯や、麻薬犯罪、風俗業界の犯罪、少年犯罪などを取り締まる部署だっ た。そこを一人で担当することになった。一課担当は複数(三人)だったから、正直言って、 頭の隅のどこかに他の担当者に寄りかかろうとする依存心があった。が、こんどは頼る人も なく、一人で全責任を負わなくてはならない。思わず身が引き締まるのを覚えた。

  ところがである。防犯担当になった途端、大事件に出くわし、あわを食う日々となった。大 事件とは、相撲界の短銃(ビストル)所持事件である。
 警視庁保安課は五月六日、元大関・若羽黒を銃刀法違反容疑で逮捕した。ビストルを不 法に所持していた疑いだった。私は、発表に基づいてこれを記事にしたが、事件はこれだけ にとどまらなかった。同月十一日には、日本相撲協会理事の九重親方(元横綱・千代の山) がピストル一丁と実弾五発をもって警視庁に出頭し、銃刀法違反容疑で任意の取り調べを 受けた。
 こうした発覚を受けて、私は夜になると、保安課幹部宅に出かけた。いわゆる「夜討ち」だ。 が、防犯担当になったばかりで、いわば初対面に等しい新米担当記者が捜査員に相手にさ れるはずもなかった。
 五月十三日は「泊まり勤務」で、警視庁記者クラブに泊まった。翌朝、十四日付の毎日新 聞を見て、仰天した。社会面に三段扱いの、次のような見出しの記事が載っていたからだ。
 「川に捨てた 大鵬、柏戸」
 「関取のピストル、警視庁に報告」
 記事によれば、日本相撲協会が横綱・大鵬、横綱・柏戸がビストルを所持していたことを、 十三日に警視庁に報告した。大鵬は一九六四年に米国に巡業に行った際に銃一丁と銃弾 を、柏戸は一九六二年にハワイに巡業した際に銃一丁と銃弾をそれぞれ買ったという。警視 庁がビストルの摘発に乗り出したためこわくなり、二人とも銃と弾を隅田川に捨てたという。
 当時の大相撲は、いわゆる「柏鵬」時代で、大鵬と柏戸の活躍が大相撲人気を支えてい た。その角界を代表する二人がビストルを不法所持していたなんて、大ニュースである。そ れは「毎日」の特ダネだった。ということは、抜かれたのだ。「やられた」と、あたふたしている と、社会部の夕刊担当デスク(次長)から電話がかかってきた。「おい、どうなっているんだ。 とにかく、夕刊用の原稿を早く送れ」。
 事実を確かめようにも、保安課の幹部はまだ登庁してきていない。「毎日」の記事を拝借し て記事を仕立てることも可能だが、そんなことをすると、もし「毎日」の記事に誤りがあった ら、こちらの記事もまちがってしまい、恥の上塗りになる。あれやこれやで、私の頭はパニッ ク状態になったが、なんとか原稿をまとめ、夕刊用に送った。
 事件は、さらに拡大した。柏戸と大鵬が警視庁に出頭、その供述に基づいて隅田川の川ざ らいが行われた。、東前頭三枚目・北の富士、西前頭二枚目・豊国もビストル不法所持で取 り調べを受けた。取り調べを受けた力士・元力士は結局、七人にのぼった。
 防犯担当になったばかりの事件で、夜回りなどを通じて捜査員にこちらの顔を売り込む時 間もなかったことに加え、角界にはまったく縁がなかったため、取材には苦労した。
 大相撲は、私にとってとくに興味のあるスポーツではなかったし、第一、国技館に行ったこ ともなかった。テレビで観戦するだけで、要するに、よく分からない世界であった。もう少し勉 強しておくべきだった、と思ってみても、しょせん後の祭り。他社の記事をみていると、大相撲 の取材を担当している運動関係の部が、社会部に協力している気配を感じさせたが、わが 「朝日」の場合、他部から情報が提供されるというようなことはなかった。
 結局、一人で夜回りに精を出す以外にない。まさに孤立無援。これが新聞記者の世界だ、 と思い知らされた。「特ダネが得られるんだったら、捜査員に土下座してもいい」。そんな思い に駆られたものだ。
 結局、この事件の取材では、「毎日」のスクープ以後、抜かれることはなかったが、特ダネ をものにすることもなかった。
 ただ、にがい思い出は他にもある。別の事件でも抜かれたからだ。この年の八月、警視庁 は金の密輸で十二人を逮捕したが、これも「毎日」のスクープだった。

 八月末、キャップに申し渡された。「岩垂君、きみは来月から東京版だ」。わずか四カ月の 防犯担当。キャップは「ご苦労さんでした」と言ってくれたが、私は「抜かれてばかりいたから な。まあ、事件記者落第ということだろう」と受け止めた。かくて、警視庁クラブでの勤務は十 カ月で終わった。一生懸命やったが特ダネを書くことはできなかった、という無念さが残る一 方、これで報道界で最も激烈な競争の現場から解放されるんだという、なにかほっとした気 分もあった。

 健康には自信があった私だが、警視庁記者クラブ勤務の直後、病気になった。痔を痛めた のだ。それまで痔病はなかったから、明らかにこの時期の仕事が影響していると、私は思っ ている。すなわち、長時間にわたるハードな労働だったうえに、夜間、寒風が吹きすさぶ屋外 で捜査員の帰りを待ちわびるという「夜回り」が、体内の血液のめぐりを悪くし、痔病を招いた と考えるのだ。この時期の大酒のみも影響したかもしれない。二年後、手術のため、私は十 二日間、入院した。長い社会部勤務の中で、病気で休んだのはこの時だけである。





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