もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第44回 「抜いた、抜かれた」の世界


警視庁記者クラブでの「朝日」のメンバー。中央の眼鏡をかけた人が
キャップの長谷川一富氏。その右隣が筆者(1965年)




 東京・本所警察署の記者クラブを拠点に下町方面のサツまわり(警察まわり)をしていた私 は、一九六四年(昭和三十九年)十一月に警視庁記者クラブに移った。

 警視庁記者クラブは、事件・事故の取材を担当する記者の詰め所だ。東京・桜田門の旧警 視庁ビルの二階にあった。正式名称を「七社会」といい、朝日新聞のほか、毎日新聞、読売 新聞、日本経済新聞、東京新聞、共同通信など七社が記者を常駐させていた。各社とも夜 は泊まりの記者をクラブに配置していたから、各社とも、いわば二十四時間態勢で事件・事 故の警戒にあたっていたわけである。
 ちなみに、警視庁にある記者クラブは七社会だけではなかった。NHKや産経新聞、時事 通信などが加盟する「警視庁記者クラブ」、民放各社が加盟する「警視庁ニュース記者会」と いうのもあった。
 サツまわりをやっている間、私には、次の部内異動では警視庁クラブには行きたくないな、 という気持ちが強かった。それまでの記者経験から、自分は事件取材には向いていない、で きれば、事件以外の分野で仕事をしたいな、という思いが次第に強くなってきていたからだ。
 それに、激烈な取材競争の現場には行きたくない、という思いにとらわれていたからであ る。当時、私たち新聞記者の間では「各社間の最も激しい報道合戦が行われているのは警 視庁記者クラブと裁判所クラブだ」と言われていた。つまり、報道現場で「抜いた、抜かれた」 の競争が最も激しく展開されているのは警視庁と裁判所・検察庁での取材だ、という意味 だ。まさに、“仁義なき闘い”の場であった。「そんな恐ろしい修羅場には、できれば行きたく ないな」というのが、私の偽りのない気持ちだった。

 しかし、社命とあらば、行かざるをえない。
 警視庁クラブにおける「朝日」のブースはクラブの一角にあった。天井まで届くような背の高 い本棚や衝立てようのもので他社のブースと仕切られていた。中に入ると、真ん中に丸いテ ーブルとイスがあったが、数人が座ると、ひざが触れるほど狭かった。電話機や社会部との 専用電話、テレビなどが置かれていた。泊まり勤務用のベッドもあった。窓からは皇居のお 堀が見えた。
 クラブの中央には、各社共通で使用できるテーブルやソファがあり、麻雀の卓もあった。壁 にスピーカーがあり、突発の事件・事故や火事があると、警視庁や東京消防庁から速報がく るようになっていた。
 わが社の陣容は確か九人であったように記憶している。キャップは長谷川一富・次長(その 後、航空部長。故人)、一課担当三人、二課担当二人、防犯担当、公安担当、交通担当各 一人という内訳だ。二課担当の一人、相田猪一郎(故人)がサブキャップを兼ねていたように 思う。長谷川、相田はともに「朝日」東京本社内では事件記者として名がとどろいていた。
 私はキャップから「一課担当をやってもらう」と申し渡された。「いよいよ来たか」と、思わず 緊張したことを覚えている。
 一課担当の持ち場は、捜査一課と捜査三課だった。捜査一課は強力犯を捜査するところ。 つまり、殺人、強盗、強姦、放火など凶悪犯罪が対象だ。捜査三課は盗犯、すなわち盗みや スリが対象。
 一課担当は、猛烈に多忙だった。午前十時前にはクラブに出勤し、捜査一課、捜査三課を 回る。取材の相手は課長か課長代理だ。事件があれば、そのあらましを聞いて夕刊用に社 会部に電話で送る。何もなくても、課長や課長代理と会話を交わす。両課の幹部や広報課 員がクラブに出向いてきて、事件に関する発表をすることもあった。
 夕方の警視庁閉庁間際にも、捜査一課、捜査三課を回る。その後は、クラブで過ごし、夜 九時過ぎともなると、会社から車を呼んで「夜まわり」に出る。主として捜査一課の課長代 理、係長、主任クラスの自宅を訪ね、捜査中の事件の進展状況を聞く。時には、ウイスキー など手みやげを持参する。が、こちらが一課担当としては新米だったから、居間まであげてく れる捜査員はまれ、たいがいは玄関での立ったままの対応だった。
 それから、車で自宅に帰る。当時、これら捜査一課捜査員の自宅は立川とか八王子といっ た、都心から遠いところが多かったから、そうしたところを夜まわりして、文京区のわが家(ア パート)に帰ると、すでに深夜だった。それから少し寝て、朝、また警視庁クラブに出勤する。
 殺人事件が起きると、所轄の警察署に捜査本部が設置された。それを指揮するのは警視 庁捜査一課。私たち一課担当も捜査本部に詰め、捜査状況の発表を待つ。発表は捜査会 議の後だから、夜の九時からとか、十時から、というケースが多かった。
 が、その後が勝負どころ。捜査員が自宅に帰るころを見計らって、「夜討ち」を敢行する。 「犯人が特定されたかどうか」を捜査員から聞き出すためだ。容疑者の割り出しが、報道陣 にとって最大の関心事だったからである。捜査員がまだ帰っていない時は、その自宅近くの 暗がりにひそんで帰宅を待つ。帰宅の気配を感ずると、玄関のベルを押す。時には、他社の 記者と鉢合わせになる。
 捜査員にとってはこの上ない迷惑だったろう。朝からの捜査で疲れ切っているのに、深夜、 自宅にまで押し掛けてくる各社の記者に応対しなくてはならない。多くの場合、捜査員は不機 嫌で、露骨にイヤな顔をして、面会を断る捜査員もいた。しかも、一様に口が堅かった。捜査 上の秘密など漏らすわけにはいかない、ということだったのだろう。
 何の情報も聞き出せないまま、車でわが家に帰る。夜がしらじらと明けてくることもあった。
 とにかく、捜査本部が設置されると猛烈に忙しかった。だから、家にいる時間は限られ、家 族は「母子家庭」並みの生活だった。私自身、子どもが生まれた時はいつも事件取材で家に おらず、妻の出産に立ち会ったことはない。引っ越しも妻任せだった。
 それでも、事件をめぐってこうした夜討ちが続いていたのは、やはり、各社間の激烈な競争 があったからだと思う。何としても他社を抜きたい、あるいは他社に抜かれまいという思い が、記者を夜討ちに駆り立てていたのだ。加えて、何度も何度も夜討ちを敢行すれば、相手 もこちらの熱意にほだされて、捜査上の秘密をも語ってくれるのでは、との期待があったから だと思う。 

 他社との競争という点では、一課担当はまだ恵まれていたのではないか、と今にして思う。 なぜなら、一課担当は、事件が起きてから、それを起点に「よーい ドン」となる。だから、ど ちらかというと、事件が起きてから頑張ればよい。
 しかし、汚職とか詐欺とかの知能犯の取材を担当する二課(捜査二課)担当の場合は、も っと残酷だ。というのも、これらの犯罪は突発的な事件でなく、捜査は深く、静かに潜航して いる。どこかの社が書けば、それで事件が社会的に明らかになり、報道面での勝敗も明白と なるからだ。つまり、スタートラインのない、ゴールのみの競争といってよい。したがって、取 材は、ゴールを目指した、水面下の潜航取材となる。極めて緊張に満ちた、神経をすりへら す取材の日々。そのためだろう、各社の二課担当記者の顔は、いつも青白く、疲労の色が にじんでいた。

 他社との競争にいかに気を遣っていたかは、こんなことからも想像していただけるかもしれ ない。私が警視庁記者クラブの「朝日」のブースに詰めるようになってまもなく、先輩記者から 「声が大きいぞ」とたしなめられた。ブース内では小声で話さないと、こちらの声が天井に反 射して他社のブースにもれる、というわけだった。「すごいところだな」と思ったことを覚えてい る。





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