もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
新聞休刊日には、社会部員全員で一泊旅行か、日帰り旅行をした。
これを「全舷」といった(1964年5月5日、千葉県富津海岸で。筆者写す)
東京・本所警察署の記者クラブを拠点に、墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の五区に点在
する十一の警察署を担当するサツまわりから始まった社会部記者生活だったが、サツまわ
り中、忘れられない取材経験がある。それは、東京オリンピックの取材だ。
東京オリンピックは一九六四年(昭和三十九年)十月十日から十月二十四日まで、東京を
中心に開催された。九十四カ国から七〇〇〇余人の若者が集まった。アジアで初めてのオ
リンピックとあって、日本中が沸きに沸いた。
社会部は、運動部、写真部、連絡部とともに、文字通り総がかりでこの祭典の取材にあた
った。このため、私たちサツまわりも動員された。
第十二日の十月二十一日。調布市飛田給の甲州街道の道路際に立つよう命じられた。こ
の日は、陸上競技の華、マラソンが甲州街道をコースとして行われ、飛田給付近が折り返し
点になっていた。そこにいて、だれが先頭で通過していったかを社会部に直ちに連絡せよ、
というわけである。
夕闇迫る街道際で選手たちを待っていると、まず、長身でちょび髭をたくわえた、黒のラン
ニングシャツ、赤いパンツの男性が現れ、私の前を通過していった。エチオピアのアベベ選
手だった。彼を見たのは一瞬のことだったが、ややうつむき加減の彼の風貌は、まるで修行
僧のようだった。前回のローマ・オリンピックで優勝した時は裸足だったが、この日はシュー
ズを履いていた。
彼は結局、2時間12分11秒2の五輪新、世界最高記録で優勝。二連覇だった。
第十四日の十月二十三日には、女子バレー決勝戦の取材を命じられた。取材といっても、
試合の結果とか経過、つまり、試合の本記書きではない。雑観書きだ。雑観とは、選手の表
情とか、観客の反応とか、あるいは試合にまつわるドラマとか、いうなればサイドものであ
る。
決勝戦は日本対ソ連。ソ連の女子バレーは当時、世界最強といわれていた。対する日本
チームは急速に力をつけ、「東洋の魔女」と呼ばれていた。会場は駒沢オリンピック公園内
の駒沢屋内球技場。満員の球技場内で始まった試合は、予想通り息詰まる接戦となり、つ
いに日本チームが勝った。
日本女子の金メダル獲得は一九三六年のベルリン・オリンピックの女子水泳平泳ぎで優勝
した前畑秀子選手以来。日本中が興奮し、この時のテレビ視聴率は八五%に達した。
勝利してコートに並んだ日本選手たちのほおに涙が光っていた。敗れたソ連選手たちの反
応を取材すべく、私は選手控え室に向かった。すると、扉が半開きになった部屋から「ウオ
ー」という爆音のような号泣が聞こえてきた。私はたじろぎ、しばしそこに立ちつくした。
ところで、ここらで、当時の朝日新聞東京本社社会部の陣容を紹介しておこう。
部員はざっと九十人。編集局最大の大世帯だった。当時の部内配置と部内異動は次のよ
うなものだった。
社会部に来た者は、まず、例外なくサツまわり(警察まわり)をやらされた。その勤務実態
はすでに述べてきた通りだ。それが済むと、警視庁クラブ、裁判所クラブ、東京版、立川支
局のいずれかに配属された。それらを“卒業”すると、各省庁のクラブ詰めか、あるいは遊軍
となる。その“上”はデスク(次長)だ。
警視庁クラブは、事件・事故を追っかけるところ。当時は一課(捜査一課)担当、二課(捜査
二課)担当、公安担当、防犯担当、交通担当があった。裁判所クラブは、最高裁、東京高
裁、東京地裁にかかっている裁判と検察庁による捜査の取材を担当するところ。
東京版は都内版用の原稿を書く部署で、東京二十三区を数人で担当していた。立川支局
は多摩版を担当するところで、多摩地方の自治体のほか、事件関係(警察関係)の取材も併
せて担当していた。
各省庁のクラブ詰めとは、文部省、厚生省、労働省、運輸省、建設省、農林省、警察庁、
国税庁、気象庁、都庁、国鉄、羽田空港、国会などに設置されていた記者クラブに常駐する
記者のこと。遊軍とは特定の記者クラブに属さない、いわゆる無任所の部員のことで、主とし
て企画ものや続き物を担当した。
もちろん、省庁の記者クラブの中には、他部も部員を常駐させているところもあった。例え
ば、文部、厚生、労働省などのクラブには政治部も部員を派遣していたし、農林省には経済
部が部員を派遣していた。全社的な傾向を言えば、政治関係の記者クラブには主として政治
部が、経済関係の記者クラブには主として経済部が部員を常駐させていた。各部の記者が
だぶって常駐する記者クラブでは、それぞれ担当分野を決めてすみ分けていた。
省庁のクラブ詰めや遊軍には、ベテラン記者が多かった。サツまわり、警視庁クラブ、裁判
所クラブ、東京版などを歴任した記者をそれらに配置したからだ。
当時の一般的な傾向をいえば、社会部員にとって、省庁のクラブ詰めや遊軍は、あこがれ
のポストだった。もちろん、すべての記者がそこにゆけたわけではない。社会部員の異動は
激しく、サツまわりや東京版をやっただけで他部や地方支局、他の本社(大阪、西部、名古
屋の各本社)へ転勤してゆく記者も少なくなかったからである。
それにしても、こうした社会部の人員の配置を知ると、社会部は、まさに、ニュースが出ると
ころ、出そうなところにまんべんなく記者を配置しているとんだなという印象を受けた。要する
に、台風、地震など天変地異の自然現象から、政治、事件、事故、犯罪、暮らし、税制、福
祉、医療、労働行政、労働運動、各種の社会運動、教育、交通、運輸、建設、住宅、河川行
政、農業、農政、都政、区政……まで人間の社会生活全般、ありとあらゆるものを絶えずフ
ォローする態勢にあり、何が起きても直ちに対応できるようになっていた。
社会部にきたばかりの私には、社会部の取材対象の幅の広さに圧倒されたものだ。
「社会部というところは、森羅万象が取材対象なんだな」と目を見張った。それは、まさに広
い視野と豊かな知識、そしてスピードを求められる職場だった。
その後、長い社会部記者生活の中で、新聞記者を目指す若い人からよく質問された。「新
聞記者になるためにはどんな資質が必要ですか」と。これに対し、私はこう答えたものであ
る。「まず体力。第二に好奇心が旺盛なこと、第三に雑学の大家となることですね」
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