もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
吉展ちゃん事件の解決を報じる毎日新聞
(1965年7月5日付朝刊)
警視庁記者クラブに在籍したのはわずか十カ月に過ぎなかったが、いまなお記憶に鮮や
かなことがいくつかある。
まず、伊豆・大島の大火だ。
一九六五年(昭和四十年)一月十一日。年初めから事件のない平穏な日が続き、都内に
はまだ正月気分が漂っていた。
私はこのころ、警視庁クラブの一課担当で、この日は「泊まり」だった。クラブの「朝日」のブ
ースに詰めていた私は、時計の針が零時を回り、日付が十二日になったので「そろそろ寝る
準備でもするか」と、ベッドメーキングにかかった。その時だ。クラブに設置されているスピー
カーから、あわただしい音声がクラブ内に響き渡った。「伊豆・大島で火災発生。ただいま延
焼中」。
私は、ベッドから飛び起きて、警備部へ走った。現地の大島警察署からの情報はまだ乏し
く、もちろん全容は分からなかった。が、警備部からは、現地からの情報として、火災の模様
が断片的ながら刻々と発表された。どうやら大火らしく、被害も大きいことが次第に分かって
きた。
当時の朝刊用原稿締め切り時間は午前零時半ごろだったと記憶している。だから、私は入
手した情報を片っ端から、クラブと社会部とをつなぐ専用電話で社会部に送った。原稿にす
る暇などなかったから、メモを片手に頭の中で原稿を書き、送話器に吹き込んだ。当時、私
たちの間で「勧進帳」という言い方で通用していたやり方である。つまり、いまでいう「原稿なし
の現場中継」のことだ。
こうして送った私の原稿は、十二日付朝刊最終版の一面トップを飾った。そこでは、「大島
元町で大火」「四百戸焼き延焼」「強風、繁華街ひとなめ」「負傷者多数か」といった、四本見
出しが躍っていた。
出火は十一日午後十一時五十分。当時、伊豆・大島町は三千二百世帯で人口は一万二
千人。火事は長時間燃えさかり、結局、五百六十七戸が焼失した。
この火事で、大島と東京を結ぶ電電公社の電話が不通となった。大島警察署と警視庁を
結ぶ警察電話も不通になった。このため、大島警察署と警視庁通信司令室を結ぶ無線電話
がただ一つの通信連絡手段となり、これを通じて、現地の被害状況が警視庁にもたらされた
のだった。
私は、この伊豆・大島大火の記事で社会部長賞をもらった。「迅速な送稿」が評価されたの
だった。もっとも、その後、長い社会部生活をおくることになるが、定年退職まで、ついに賞と
いうものには無縁だった。ちなみに、私が在社中にあった社内表彰制度には、編集局長賞、
社長賞、社賞といったものがあった。これらは、傑出した記事を書いた社員や、新聞、出版
の製作と業務面で業績をあげた社員、新聞製作技術の発明、改良、または企画事業で功績
のあった社員に贈られた。
吉展(よしのぶ)ちゃん事件をめぐる報道合戦のことも忘れられない。
一九六三年(昭和三十八年)三月三十一日夕、東京都台東区入谷町の建築業、村越繁雄
さんの長男、吉展ちゃん(当時、四歳)が、自宅近くの公園で遊んでいたいたところを誘拐さ
れた。その後、犯人から身代金を要求する脅迫電話が村越さん方にかかり、犯人は捜査陣
のすきを突いて身代金五十万円を奪い、逃走した。これが、吉展ちゃん事件である。いまで
こそ幼児をねらった誘拐事件は珍しくなくなったが、当時はまれに見る極悪非道の誘拐事件
として社会的に大きな反響を呼んだ。
警視庁捜査一課の捜査で、脅迫電話のなまりなどから、福島県生まれの元時計商、小原
保に対し容疑が深まった。そこで、捜査一課は事件直後から二回にわたって小原を取り調
べるが、小原は頑強に犯行を否認し、そのたびに釈放される。
が、捜査一課はあきらめず、一九六五年五月、別件の盗みで前橋刑務所に収容されてい
た小原を東京拘置所に移し、「警視庁随一」といわれた平塚八兵衛部長刑事ら四人の刑事
が任意の取り調べをおこなった。四人の刑事の追及に任意捜査期限切れ直前の七月三
日、小原が「定職がないため金に困り、そのうえ借金の返済を迫られていた。金欲しさにやっ
た」と犯行を自供、吉展ちゃんは荒川区南千住の寺の墓地から遺体で発見された。
各紙とも、一面と、社会面の大半を費やしてこの二ユースを伝えた。小原は当時、三十二
歳。こうして、吉展ちゃん事件は発生以来二年四カ月で解決をみたのだった。
小原に対する三度目の取り調べが始まると、報道合戦は激烈を極めた。なかでも、わが
「朝日」の報道と毎日新聞のそれは極めて対照的だった。一言でいえば「毎日」は終始、小
原クロ説で通した。これに対し「朝日」は、長期にわたる任意取り調べは人権上問題がある
のではとにおわすなど、小原真犯人説に懐疑的な紙面づくりだった。
結果は、「毎日」の完勝だった。この時、私は警視庁記者クラブではすでに一課(捜査一
課)担当を外れ、防犯担当となっていたが、一敗地にまみれてしょげかえる同僚の一課担当
記者の顔を身近でみるのはつらかった。
そんな中で、意気軒昂な先輩記者がいた。高木正幸記者だ。この時、高木記者は社会部
の遊軍だったが、吉展ちゃん事件が起きたときは警視庁クラブの一課担当の一人だった。
捜査一課が小原に対し一回目の取り調べをおこなっていたころの一九六三年十二月十三
日付の「朝日」朝刊社会面に「声がそっくり 重要参考人に福島県生まれの住所不定無職O
(40) 関連を追及」という二段の記事が載った。
これを書いたのが高木記者だった。Oが小原であったのはいうまでもない。他社に先駆け
て小原に言及した記事だった。が、扱いが小さかったばかりでなく、その後、「朝日」の紙面
から「O」は消えてしまう。
高木記者によれば、このころ、「朝日」の一課担当の間で意見が分かれたのだという。高木
記者は「小原クロ説」だったが、もう一人の一課担当記者は「小原シロ説」。捜査陣の見方も
分かれていたということだろう。二人は当時、社会部きっての事件記者として知られていた。
二人とも、事件取材強化のために東京本社社会部が西三社(大阪、西部、名古屋の各本
社)の社会部からスカウトし警視庁クラブに放り込んだ記者だった。両記者の間に挟まった
キャップがシロ説に傾き、以後、「朝日」としては、そうした方向に進んだ、と私は高木記者か
ら聞いた。
「あれ、特ダネだったんだ。あの時、キャップがおれの説をとっておれば『毎日』に負けずに
すんだのに」。高木記者は、酒を飲むと、私よくにそう言って悔しがった。
高木記者はその後、新左翼問題や同和問題を専門とする編集委員となったが、すでに故
人。一課担当だったもう一人の記者もこの世の人ではない。
警視庁記者クラブといえば、あの人も忘れがたい。
毎晩、九時過ぎになると、決まって一人のご婦人がクラブにやってきた。大きな風呂敷包み
を背負って。その中には、おむすびやパン、駄菓子、乾き物などが入っていた。そのおばさ
んは、やおらそれらをクラブの片隅に並べて店を開く。
当時、警視庁の周りには、飲食店がなかった。だから、各社とも「泊まり」勤務の者は夕食
を自ら確保しなくてはならなかった。警視庁の食堂に行き、当直警察官用の夜食を食べる手
もあるが、多忙な時はクラブを離れられない。で、各社の泊まり勤務者を狙って、おばさんが
食い物を売りにきていたのだ。「おばさん、次にくる時はこれを買ってきてよ」と頼む記者もい
た。当直の警察官も買いにきた。もう常連だったから、彼女、警視庁の玄関はフリーパスだ
ったようだ。
彼女、いつも笑みをたたえ、寡黙だった。あのおばさん、今、どこで何をしているだろうか。
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