もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第31回 岩手・忘れ得ぬ人びとC  教員組合幹部


勤務評定問題での交渉を求めて県教育庁舎に座り込み、
警官隊に排除される岩教組組合員(1958年7月、盛岡市で)



 私が朝日新聞盛岡支局に勤めていた一九五八年(昭和三十三年)から六〇年にかけてのころ、 報道関係者の間ではやっていた言い方の一つにこんなのがあった。
 「泣く子も黙るがんきょうそ」
 「がんきょうそ」とは「岩教組」のことであり、岩手県教員組合の略称である。小、中学校の 教員を主体とする労働組合だが、その組織力、闘争力が極めて強力だったことから、こういう呼 び方が生まれたものと思われる。「がんきょう」という言い方に岩教組の「岩教」と「頑強」と いう文字がだぶって思い起こされ、なかなか面白い言い方ではないか、と思ったものだ。
 当時、組合員は約一万人。もちろん、岩手県最大の労組だった。専従者が三十六人もいた。日 教組(日本教職員組合)内では高知県教組の強力な組織力と並び称され、「南の高知、北の岩 手」といわれた。「日教組ご三家の一つ」ともいわれた。
 なにしろ、そのころは「岩手には二つの教育行政機関がある」とまでいわれたものだ。一つは もちろん県教育庁だが、もう一つが岩教組。とくに教員の人事異動に強い発言力をもち、「岩教 組が反対すると、人事異動を発令できない」とまでいわれていた。
 私も取材を通じて、その闘争力に接することがあった。支局に赴任した直後、岩教組が勤務評 定問題での交渉を求め組合員が徹夜で県教育庁庁舎に座り込んだことがあった。排除のために警 官隊が出動し、激しいもみ合いとなり、けが人が出た。サツまわり(警察まわり)だった私も動 員されたが、岩教組の動員力、統率力に目を見張ったものだ。
 そうした印象をいっそう強めたのは、五九年六月に文部省が同県花巻温泉で開いた技術・家庭 科北海道・東北地区研究協議会に対する岩教組の阻止闘争だ。これは、中学に技術・家庭科を新 設するための、北海道・東北の指導主事らを対象とする講習会だったが、岩教組はこれを教育課 程の改悪として組合員を動員し騒音戦術などを展開した。音を上げた文部省は会場を変更した り、日程を切りつめざるをえなかった。私は当時、教育担当だったから、この阻止闘争の一部始 終をこの目で見た。
 岩教組の強さを支えていたものの一つは、その経済力だった。当時、県内各地に十五の教育会 館をもっていた。また、互助部には当時の金で一億円を蓄えていた。山林十二ヘクタールをもつ 山林地主でもあった。こうした財政力があったから、各種闘争に資金を投入することができたの だ。
 それに、岩手の僻地性も作用していたろう。僻地校が多く、教育環境も教員の労働条件も極め て劣悪だった。だから、教員たちは、それらを解決するためには、自分たちの組織に結集して団 結力を示す以外に道はなかった。

 当時、岩教組を率いていた委員長は小川仁一。 東和町の出身で、小学校教諭を務めたあと、 組合活動に転じた。粘りっこい岩手弁で、言いにくいことも歯に衣着せずずけずけ言う。押しも 強く、ときにはそれがふてぶてしい印象を与えた。このため、敬遠される向きもあったが、率直 で、温かみのある人柄が愛され、人気があった。彼我の力を慎重に見極めて入念に戦術を練る戦 略家といった感じのリーダーだった。
 これに対し、書記長の千葉樹壽(たつし)氏は、堂々たる体躯の、見るからに闘士といった感 じで、いうなれば猪突猛進型活動家のイメージ。音楽の先生、と聞いたことがある。他に、教文 部長の佐藤啓二氏、情宣部長の千葉直氏、執行委員の柏朔司氏らが印象に残る。また、岩教組は 当時、日教組に役員(中央執行委員)を出しており、当時は小田一夫氏だった。

 ところで、私が盛岡を去った後、小川は二度にわたって全国的な出来事の主役となり、脚光を 浴びる。 
 一九六一年(昭和三十六年)十月二十六日、文部省による全国一斉学力テストが行われた。中 学二、三年を対象にしたもので、学習指導の改善や教育的諸条件の整備のため、とされた。これ に対し、日教組は「教育の国家統制の強化を企図するもの」として阻止行動を指示。結局、大半 は混乱なく学力テストが行われ、実施率は全国平均で九一%だった。しかし、岩手県は八一%の 学校で学力テストが実施されず、平常授業が行われた。
 その直後、小川、千葉樹壽、佐藤、千葉直、柏氏ら岩教組執行部九人が地方公務員法違反容疑 (禁止されている争議行為をそそのかし、あおったという容疑)で逮捕される。裁判は最高裁ま で持ち越され、一九七六年、そこで有罪の判決(執行猶予付き懲役刑)がくだされる。「学テ闘 争をやったことを今も誇りに思っている。学テは世論に押されて五年で終わり、国民の判定はと うに出ている」。判決を聞いた小川の談話である。
 二回目の脚光を浴びた舞台は、一九八七年三月に行われた、売上税が争点となった参議院岩手 選挙区補欠選挙だ。小川は社会党公認で出馬し、自民党公認候補と一騎打ちとなったが、「売上 税反対」一本にしぼった小川が四十二万票対十九万票で圧勝。小川が語った「中曽根さんのおか げです」は流行語になった。中曽根内閣は売上税法案を廃案にせざせるをえなかった。
 当選直後、参院議員会館の小川の部屋を訪ねた。「おお、岩垂君、元気かね」と笑顔で迎えて くれた。やはり岩手弁であった。
 八九年の参院選で再選される。二〇〇二年に没。八十四歳だった。

 岩教組本部の事務所は盛岡市街の中心、盛岡城址きわに建つ教育会館内にあったが、同市内に は高校の教員でつくる岩手県高等学校教職員組合(県高教組)の事務所もあった。そこでは、よ く情宣部長の澤藤禮次郎に会って話を聞いた。長身で端正な感じの論客だった。彼はやがて委員 長になり、その後、出身地の北上市を地盤に旧岩手二区から社会党公認で衆議院選に打って出 て、当選した。その彼もすでに故人だ。





トップへ
戻る
前へ
次へ