もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
第30回 岩手・忘れ得ぬ人びとB 三国連太郎、千昌夫
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盛岡市街の中心部を流れる
中津川。三つの橋がかかっ
ていたが、写真は中ノ橋。橋
ぎわにレンガ造りの岩手銀行
本店があった(1958年に写す)
「三国さんですか。朝日新聞の者です。おさしつかえなかったら、宿までお送りします」
一九六〇年(昭和三十五年)一月のある日、岩手県盛岡市の盛岡駅の降車用改札口。列車から
一人で降りてきた長身の男性に声をかけると、男性は立ち止まってじろりと私の方を見た。私が
重ねて「宿までお送りします」と軽く頭を下げると、男性は無言のまま歩き出し、私に従って駅
前のタクシー乗り場まで足を運んだ。
私たちはタクシーに乗り込んだ。男性に「どこの旅館ですか」と尋ねると、男性はぶっきらぼ
うな口調で市内にある旅館の名を言った。その後、タクシー内ではお互いに無言。タクシーが旅
館の前に止まり、男性が旅館の玄関に入ってゆくのを確かめると、私はそこから離れた。そし
て、思わず心の中で叫んだ。「やったぞ。やっぱり映画で見たとおりの顔、体つきをしていた
な」
「三国さん」とは俳優の三国連太郎氏である。その三国氏を盛岡駅から宿泊先の旅館まで私の
手で送り届けることができたのだ。
岩手県の中央を横断する鉄道がある。山田線という。盛岡を出て三陸沿岸の宮古へ向かい、そ
こから三陸沿岸を南下して釜石に至る。全長一五七キロ。北上山地の急峻な山間部を切り開いて
通した鉄道(当時は国鉄)だけに、私が盛岡支局に勤務していたころは、豪雨や大雪が降ったり
すると沿線で土砂崩れや雪崩が起き、長期間にわたって不通になることが多かった。数カ月も不
通などということも珍しくなかった。
この山田線を舞台に、六〇年一月中旬から約一カ月、劇映画『大いなる旅路』のロケが行われ
た。監督は関川秀雄、脚本は新藤兼人氏。
一九四四年(昭和十九年)三月十二日朝、下り貨物列車が平津戸―川内間の鉄橋にさしかかっ
たところ、橋脚が雪崩のために谷底に傾いていたため、機関車は脱線して閉伊川に転落。重傷を
負った機関士は、かろうじて歩ける機関助手に「早く事故の報告を」と指示し、機関助手は平津
戸駅にたどりついて救助を求めた。機関士は救助隊到着を見届けると息を引き取った。
映画はこの実話をもとにして、国鉄機関士の英雄的な活躍を描いたもので、三国氏がその機関
士に扮した。
三国連太郎主演で山田線沿線で映画ロケが行われるという記事を地元紙で読んだ私は、ぜひ彼
に会ってみたいと思いたった。そして、彼が盛岡駅に下車するのを待ちうけ、幸運にも彼をつか
まえることができたのだった。ロケでは、本物の機関車を転覆させて貨物列車の事故現場を再現
するという熱の入れようだった。
なぜ、私が三国連太郎氏のファンになったのか。それは、私が彼と“共演”したことがあるか
らだった。
長野県の諏訪に生まれ、育った私は一九五一年(昭和二十六年)四月、長野県立諏訪清陵高校
(旧制県立諏訪中学校)に入学した。入学早々、学校で松竹映画のロケがあった。木下恵介監督
の『少年期』だ。児童心理学者・波多野勤子の長男が戦時中、東京から諏訪に疎開し、諏訪中学
校で学んだ。母勤子と交わした往復書簡が戦後に刊行され、ベストセラーとなった。それを原作
につくられたのが『少年期』で、母勤子に田村秋子、長男に新人・石浜朗が扮した。
つまり、わが母校でそのロケが行われたというわけだが、私も映画の一シーンに登場する。石
浜朗をいじめる役だ。学校で映画撮影があるというので、野次馬気分で見学に行ったら、日当つ
きのエキストラの一人に採用され、思いもかけず映画に登場するはめになった。木下監督の演出
はことのほか厳しく、度重なるNGに泣いた。あまりにも下手くそな演技で自己嫌悪に陥り、私
は長いこと、『少年期』の再上映があっても観るのを避けてきたほどだ。
この映画に三国氏も出演した。母校でのロケ現場には姿をみせなかったが、私は出来上がった
映画の中で彼をみた。石浜が諏訪に疎開するまで通っていた東京の中学の国語の教師というのが
三国氏の役どころで、戦争に疑問を持ちながらも戦地におもむき戦死するという悲劇的な役まわ
りだった。
当時の日本人にしては珍しい均整のとれた長身。ギリシャ彫刻を思わせる端正な顔立ちの美男
子で、私はすっかりそのファンとなってしまった。
本名は佐藤政雄。群馬県太田市の生まれ、静岡県で育つ。徴兵で中国に渡るが、そこで敗戦を
迎える。復員後、いくつかの職を転々とし、一九五〇年、松竹大船の研究生となる。そこで、木
下恵介監督に見出され、映画『善魔』の主役(社会部記者)に抜擢される。「三国連太郎」はそ
の時の役名である。『少年期』への出演は俳優デビュー二作目だった。
『大いなる旅路』でブルーリボン賞新人賞、NHK映画賞男優主演賞。その後も、私は彼の出
演作品をたびたび観てきたが、とくに『飢餓海峡』(一九六五年)での演技は名演と思う。一九
八八年からは、シリーズ『釣りバカ日誌』を欠かさず観ている。ご存知のように、ここに出てく
る鈴木建設社長のスーさんが三国氏だ。一九二三年生まれというから、当年八十二歳。俳優の佐
藤浩市氏は長男である。
岩手出身の芸能人では、千昌夫氏が印象に残る。朝日新聞が連載した『新人国記』の取材で、
一九八一年、東京・新宿の新宿コマ劇場の楽屋で会った。ここでロングラン公演中で、そのうち
の一日、公演前に時間をさいてインタビューに応じてくれた。ファンから届けられたランなど華
やかな花で埋まった楽屋。当時、三十四歳。
岩手県南部、三陸沿岸の陸前高田市に生まれた。八歳の時、左官屋の父が出稼ぎ先で病死。こ
のため、兄は高校進学をあきらめ、左官になる。自分も左官になるつもりだったが、兄の稼ぎで
高校に進学する。が、二年で中退して東京に出、作曲家の遠藤実氏に弟子入りして歌手を目指
す。
「おふくろや兄の苦しみを見るにつけ、何かこう、有名になって家族を幸せにしなくては、と
思った。若い者にできて簡単に金になるものといえば、芸能界かスポーツだった」
だが、言葉のなまりがひどく、最初の曲のレコーディングでは、中止寸前までいった。「苦し
かったですね。でも、そのうち、ぼくはね、なまりを直すよりも表に出してやってみようと思っ
たんです」。方言を直すよりも、逆に方言を売り物にしてみよう。まさに居直りだった。そし
て、これが功を奏して、大ヒットが生まれる。『星影のワルツ』に『北国の春』。「二曲とも、
もう国民歌謡ですよ」。
インタビューをする前、正直言って私にはある先入観があった。「芸能人だから、ちゃらちゃ
らした、はすっぱな一面もあるのではないか」。テレビの画面から受ける印象も、そう思わせ
た。しかし、千氏は私の質問に真正面からきちんと答え、ちゃかしたり、はぐらかすということ
はなかった。はすっぱなところはいささかも感じさせず、むしろ、それまでの苦労を内に秘め
た、思慮深い、礼儀をわきまえた青年、という印象を受けた。テレビが映し出す「千昌夫」と素
顔の「千昌夫」とは違っていた。
「世間は表面しか見ないんですよ。とくに芸能人に対しては」
別れ際に彼がもらした一言が、いつまでも印象に残った。
その後、彼が不動産投資に失敗して莫大な借金を背負ってしまったというニュースが芸能週刊
誌をにぎわせた。それを見るたびに、私は新宿コマ劇場で見た彼の顔を思い出してはひそかに心
配したものだ。が、三月二十七日夜、テレビ朝日で『星影のワルツ』『北国の春』を歌う元気な
彼を久しぶりに見て、安心した。
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