もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第15回 岩手県とはどんなところ?  その3 首相の産地


岩手は古代から馬産の地として知られる。毎年6月15日に
催される「南部チャグチャグ馬コ」。滝沢村から盛岡市まで、
着飾らせた馬が鈴の音を響かせながら行進する
(1958年、盛岡市で)



  整備が遅れた鉄道、道路、港湾などの社会資本。工業の未発達。全国でも最下位グループに 属する一人あたりの県民所得。県内各地に点在する無医村と日本一の乳幼児死亡率……一九五八 年(昭和三十三年)に盛岡に新聞記者として赴任した私の目に映った岩手県は、いわゆる「後進 県」だった。大学生活を東京でおくった私の目には、首都圏と岩手の落差はあまりにも大きかっ た。
 そうした後進性はどこからきたのだろうか。東京から遠隔の地である東北の一角に位置してい たことが開発を遅らせてきたのだろうか、あるいは広大な山地が多く、気候も寒冷で、それがた びたび凶作をもたらすなどして産業の発展を阻んできたからだろうか。もちろん、そうした自然 条件が影響していたことは確かだが、私の目には、日本の歴史そのものが、岩手を「後進県」に おしとどめてきたように思えてならなかった。
 岩手は奈良時代まではエゾ地と呼ばれ、大和民族の中心地の西日本から遠く離れていた。やが て坂上田村麻呂らによって征討され、大和朝廷の支配下に入った。岩手南部の衣川に栄えていた 安倍一族も「前九年の役」で源頼義らに征服され、その領地は清原氏によって占有された。その 清原氏も源義家によって鎮圧され、藤原清衡が勃興する。これが藤原三代による約一世紀の平泉 文化を生み出すが、その栄華も源頼朝によって制圧される。
 その後、豊臣秀吉の天下統一により、岩手の北部は南部藩、南部は仙台藩(伊達藩)の所領に なった。南部藩は盛岡に城を築いた。
 戊申戦争では、南部藩は佐幕派として奥羽列藩同盟に加わり、「官軍」と戦ったが、あえなく その軍門にくだる。このため、一時、白石(宮城県)に減転封されるなど、辛酸をなめた。
 こうした歴史をたどると、坂上田村麻呂の「東征」以降の岩手の歴史は藤原三代の百年を除い て被征服のそれであり、中央政権によるいわれなき偏見と侮蔑にほんろうされてきた屈辱の歴史 なのだ。
  屈辱の歴史は明治維新後も続く。戊辰戦争で「官軍」に刃向かったため、維新後、「朝敵」 「逆賊」の汚名を着せられ、明治政府からことごとに冷遇または軽視された。交通網や産業基盤 の整備といった面で著しく遅れてしまったのも当然であった。
 盛岡支局在勤中、私は取材先で親しくなった人々が「なにしろ、わがみちのくは明治の薩長藩 閥政府から『白河以北一山百文』とさげすまれてきたんですから。これは、福島県の白河関以 北、つまり東北は一山百文程度の価値しかない地域だ、という意味なんです」と、憤懣やるかた ない口調で語るのを何度も耳にした。
 薩長藩閥政府に対する恨みつらみが、いまなお岩手の人びとの心深く宿っているのを知って驚 いたものである。
 だが、「艱難汝を玉とす」という言い伝えがあるように、中央政府から強いられた苦難は傑出 した人物を育んだ。「中央」に対する反発心や「中央」には負けまいとする気概と執念が岩手の 人びとを鍛えたのである。
 あまり知られていないことだが、岩手県は明治以降、五人の首相を輩出した。まず、爵位をも たない衆院議員から首相となった「平民宰相」の原敬。次いで、海軍出身で二・二六事件で犠牲 となった斎藤実。同じく海軍出身で戦争回避の道をさぐった米内光政。陸軍出身で太平洋戦争を 起こした東条英機。そして、戦後、自民党総裁となった鈴木善幸である。東条は東京生まれだ が、父親の英教(陸軍中将)が盛岡の出身であったことから、岩手県民は東条も岩手が生んだ宰 相に数える。
 歴代首相の出身地をみると、山口県が七人でトップ。岩手県はこれに次ぐ。明治政府を牛耳っ た薩長土肥の四大勢力にも属さず、むしろ「朝敵」とレッテルをはられた岩手が、いわば“首相 の産地”であり続けてきたこと自体、極めて異例なことだ。
 首相にはならなかったが、外相や東京市長をつとめた著名な政治家・後藤新平も岩手出身であ る。
 首相ばかりでない。陸海軍の幹部も多く輩出した。首相をつとめた斎藤実、米内光政はともに 海軍大将だったし、東条英機も陸軍大将だった。そのほか、及川古志郎(海軍大将、海軍大 臣)、栃内曽次郎(海軍大将)、山屋他人(海軍大将)、板垣征四郎(陸軍大将、陸軍大臣)ら を排出している。
 陸海軍の幹部を多く輩出した背景の一つは、やはり岩手県が置かれていた政治的環境だろう。 「朝敵」のレッテルをはられた岩手の出身者が官界で頭角を現すのは極めて困難だった。その 点、実力がものをいう陸海軍は、岩手県人にとって、いわば「開かれたコース」だったわけであ る。沈着にして粘り強い県民性も軍人に向いていたのかもしれない。
 もちろん、政治家と軍人ばかりでない。スケールの大きい国際的人物も育んだ。その代表が、 思想家、教育家で国際連盟事務次長をつとめた新渡戸稲造だ。その肖像は、まだ流通中の五千円 札でみることができる。





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