もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

岩垂 弘(ジャーナリスト)

  第1部 心構え、あるいは心得

 第14回 岩手県とはどんなところ?  その2 民謡にみる哀しさ


岩手県北部は山地が多く、木炭の産地だった。積み出しには子どもたちも
手伝った。(1950年代)


 整備が遅れた鉄道や道路。乏しい交通機関。寒冷地での畑作農業。少ない近代的な工場。全国 でも最下位グループに属する一人あたりの県民所得。県内各地に点在する無医村と日本一の乳幼 児死亡率……一九五八年(昭和三十三年)に盛岡に新聞記者として赴任した私の目に映った岩手 県は、盛岡市など一部の都市部を除き、とても貧しかった。大学生活を東京でおくった私の目に は、首都圏と岩手の落差はあまりにも大きかった。
 
 盛岡支局在任中、折にふれて私の心をとらえたのは岩手の民謡だった。
 岩手の民謡を聴く機会が何回かあった。盛岡の繁華街の料亭で開かれる宴会に出る機会があっ たからだ。それは、記者クラブと取材先の団体幹部との懇親会であったり、本社の幹部を迎えて の会議(通信会議といった)のあとの懇親会であったり、支局員の歓送迎会であったりした。新 聞記者になるまでは貧乏学生で料亭などに行ったことはなかったから、私にとっては初めての経 験だった。
 料亭の宴席では、芸者さんが唄や踊りを披露するのがならわしだった。そこで、地元岩手の民 謡を聴かされた。
 よく聴いた民謡は、「南部牛追唄」「沢内甚句」「外山節」だ。
 まず、南部牛追唄。
 
  田舎なれども 南部の国は
  西も東も金の山
  コラサンサエー
 
 のびやかで勇壮な民謡である。南部の国(岩手のこと、岩手の北半分は南部藩の領地だったの でこう呼ばれた)は古来から馬の産地として知られたが、南部牛もまた特産品の一つだった。牛 を放牧場からセリ市に連れてくる途中で唄われたのがこの唄という。朗々と唄われるこの唄に耳 を傾けていると、岩手の広大な風土と農牧民の喜びが伝わってくる。
 しかし、沢内甚句や外山節となると、一転、哀調をおびたものとなる。
 沢内甚句の唄いだしはこうだ。
 
  沢内三千石 お米の出どこ
  桝(ます)ではからねで
  コリャ
  箕(み)ではかる

 盛岡から南西へ約六〇キロ、秋田県境に近い沢内村に伝わる盆踊り唄だ。このあたりは藩政時 代、南部藩の隠し田だった。良質な米がとれた。「桝で量らないで箕で量る」ほどの美田だった というわけである。字面を追う限り、喜ばしいことを寿ぐ唄といえる。
 しかし、この唄が醸し出す雰囲気はなんとももの哀しい。というのも、この唄、実は哀歌だか らである。芸者さんは「この唄のほんとうの意味はこういうことなのよ」と言って、歌詞を言い 換えて唄ってくれた。発音は同じだから、耳で聞いただけでは同じだ。
  
  沢内三千石 およねの出どこ 
  枡ではからねで
  身ではかる 

 岩手の人たちによれば、沢内は名うての豪雪地帯。そのうえ、岩手県北部の三陸海岸から県内 部に向かって初夏に吹く冷たい風、やませの風下にあたる。このため、冷害、凶作に見舞われる ことがあった。が、年貢米の取り立ては豊凶にかかわりなく厳しかった。困り果てた農民たちは 年貢の代わりに、「およね」という娘を藩に差し出した。およねはなかなかの美人で、彼女のお かげで村は救われたという。いわば人身御供の悲しみをうたった唄なのだ。
 後年、私はこの村を訪れたが、七月初めだというに山陰の林の中に残雪があった。
 
 一方、外山節は「石川啄木」の生地として知られる玉山村の外山という地区に伝わる民謡だ。 明治時代にここにつくられた御料牧場の作業員たちが唄った草刈り唄が起源という。
  
  わたしゃ外山の
  日蔭のわらび
  誰も折らぬで
  ほだとなる
  コラサーノサンサ
  コラサーノサンサ

  外山育ちでも
  駒コに劣る
  駒コ千両で買われゆく

 「ほだ」とは、いろりやかまどにくべる薪、あるいは掘り起こした木の根や樹木の切れはしの ことである。こちらも、なんともわびしい響きだ。
 私の郷里、信州の代表的民謡といえば木曽節や伊那節である。それらは、朗らかで明るい。沢 内甚句や外山節に感ずる哀調はない。
 岩手の民謡の基調は「貧しさ」ではないか。私は当時、そう思ったものだ。





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