もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
支局の1階フロアには六角机とだるまストーブがあった。
私たちはここでよく話し合った(1959年、盛岡支局で)
朝日新聞盛岡支局に赴任して半年たった一九五八年十月、大学の先輩の結婚式が東京であり、
その披露宴に出席するため、数日間の休みをもらって東京行きの列車に乗った。支局に赴任以
来、初めての東京だった。
披露宴に参加したあと、有楽町の東京本社に立ち寄った。日ごろお世話になっている岩手版編
集者の久志卓也氏にあいさつしようと思ったからだ。
本社編集局の通信部整理課を訪ねると、久志氏がいた。あごがしゃくれたように長い長身の人
で、各県版の編集用机が並ぶ一角に座り、盛岡支局から届いた原稿に目を通していた。かたわら
に立って名前を告げると、「おう、岩垂君か。いま、どこを回っているんだ」と問いかけてき
た。「警察です」と答えると、久志氏はすかさず言い放った。「特ダネは寝て待てだな」
その時、その意味が分からなかった。「この先輩は妙なことを言うな」と、しばし相手の顔を
眺めたほどだ。「足でせっせと歩いて情報収集するのが新聞記者。何もしないで寝ていたら、特
ダネはおろか、ごくありきたりのニュースさえキャッチすることができないではないか」
それにしても、妙に印象に残る久志氏の言葉だった。盛岡に帰ってからも気になり、いったい
どういうことなんだろうと考え続けた。その結果、その意味するところが次第に分かってきたの
である。
――とにかく、徹底的に取材先を回れ。回って回って回りまくれ。それも誠心誠意の態度で。
そうやって、取材先との人間関係を深めよ。そうすれば、いつかは相手の信頼を得ることができ
る。 そうなれば、もう安心だ。こちらが寝ていても、何か起きれば、先方から、こんなことが
あるよ、と知らせてきてくれるはずだ――久志氏の言葉を私なりにそう理解したのだった。
以来、私は折りにふれて自身に「特ダネは寝て待て」と言い聞かせた。
新聞記者の世界には「夜討ち朝駆け」という業界用語がある。取材先の人物の自宅を夜に訪ね
たり、早朝に訪れることをいう。役所では口の堅い人物も、自宅だと心を開いてくれる。だか
ら、自宅まで出かけて話をきこう、というわけである。
大事件が起きると、捜査会議を終えた捜査員が自宅に帰るころを見計らって、捜査員の自宅に
まで出かけてゆき、捜査状況を聞き出す。居間まで上げてくれる捜査員もいれば、「話すことは
ない」と玄関先で記者を追い返す捜査員もいる。それゆえ、取材が深夜に及ぶこともある。これ
が、「夜討ち」だ。そればかりでない。早朝、捜査員が自宅を出る前に、捜査員を襲って取材を
敢行する。こちらが、「朝駆け」である。
捜査員にとってみれば迷惑このうえもないことに違いない。だから、露骨に不快感を示す捜査
員もいる。が、記者としてはなんとしても「特落ち」は避けたいし、できれば「特ダネ」をもの
にしたい。いまはどうかしらないが、私が現役記者のころは、新聞社間の激烈な報道合戦は、こ
うした形で行われていた。
さて、話を盛岡支局時代に戻せば、久志氏の忠告以後、私は「夜討ち朝駆け」はともかく、
「朝まわり」に励んだ。午前七半から八時ごろにかけ県警本部と盛岡署の宿直室を訪ね、前夜か
ら宿直をしていた警察官と話し込むのだ。当時の宿直室は畳敷き。畳まれたばかりの布団のかた
わらで、アンダーシャツとズボン姿の警察官と雑談を交わす。昼間、執務室で顔を合わせる警察
官とはまた別の素顔がそこにあった。
もっとも、「朝まわり」で何人かの警察官と親しくなったが、「こんなことがあるよ」と先方
からひそかに極秘情報を知らせてくれることはついになかった。期間が短かったせいかも知れな
い。あるいは、努力が足りなかったのか。とにかく、にわかづくりの「朝まわり」は「朝起きは
三文の徳」とうわけにはまいらなかったのである。
「特ダネは寝て待て」とともに、いまひとつ、忘れられないフレーズがある。盛岡支局の先輩
記者からの忠告だったのか、あるいはそれ以外の先輩記者からのそれだったのか記憶があいまい
だが 、フレーズの内容はこういうことだった。
「新聞記者として一番肝心なことは、君が転勤で赴任地を離れる時、君との別れを心から惜し
んでくれる人が何人いるかということだ。その数によって、赴任地での君の仕事がどんなもので
あったかが決まる」
盛岡支局を離任して盛岡駅から列車で転勤先の浦和支局に向かったのは一九六〇年八月六日。
窓外を流れるように遠ざかる盛岡の街に目をやっていると、取材で世話になった人々の顔が浮か
んでは消えた。送別会を開いてくれた人、餞別をくださった人、記念品を届けてくれた人……。
その人たちを指折り数えながら、そのフレーズを思い出していた。「仕事の内容はともかく、こ
の街で少なからぬ人びとの信頼を得ることができたのは確かだ」。そんな思いが私を満たした。
盛岡で知り合った人びとのうちすでに亡くなった人も多い。健在の人びととのお付き合いは、
四十六年後の今も続いてい
る。
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