もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
盛岡支局のフロア中心には六角机があった。
電話をかけているのは筆者(1958年5月)
私が朝日新聞に入社して岩手県の県都・盛岡市の盛岡支局に赴任したのは一九五八年(昭和三
十三年)の四月十四日だったが、新聞記者としての仕事は翌十五日から始まった。
仕事はサツまわり(警察まわり)だった。サツまわりといっても、警察だけを回るわけではな
い。警察のほか、検察庁、裁判所も回らなくてはならない。つまり、すべての事件・事故が取材
の対象なのだ。それを一人で担当する。「私のような者でも果たして務まるだろうか」。不安と
緊張感を覚えた。
初日は、それまでサツまわりをしていた先輩記者が、私を引き回してくれた。先輩の後につい
て県警本部、盛岡警察署、盛岡地検、盛岡地裁を回った。行く先々で、先輩記者が私を「新人で
すからよろしく」と、警察官や検察官や裁判所書記官に引き合わせてくれた。私はそのたびに名
刺を渡し、頭をさげた。翌日からは、独りで回らなければならない。不安と緊張感は増すばか
り。
かくして、私は入社二週間で取材の現場に出されたのだった。入社前、私はかなり長期の研修
期間があり、それから地方支局に出されるのではと予想していた。なぜなら、まだ右も左もわか
らない新聞記者の卵なのだから、新聞記者としての取材の仕方や原稿執筆のABCを最低限度身
につけさせてから取材の第一線に派遣するのではないかと思っていたのだ。が、現実は違ってい
た。
地方支局赴任前の東京本社(東京・有楽町)での研修期間は実質十日間だった。研修は十人で
受けた。この年四月に朝日新聞社に入社した編集関係の社員は二十三人だったが、うち東京本社
に配属されたのは十人だったからだ。ちなみに、大阪本社と西部本社(小倉)に配属されたのが
各五人、名古屋本社に配属されたのが三人だった。
初日が編集局長と社会部長の話と社内見学。二日目が特信部長、外報部長、通信部長の話。
特信部とはラジオや電光ニュース用の原稿を書くところ。外報部は国際ニュースを扱うところ
で、海外支局を統括する部署だ。通信部とは地方のニュースを扱い、地方の支局や通信局を統括
する部署である。
三日目と四日目は、新聞用語に関するレクチャーに写真部見学と写真撮影の実地訓練。写真撮
影の実地訓練では新聞社所有のカメラを貸与され、それで有楽町周辺の風物を撮し、出来上がっ
た写真について写真部員が手取り足取り講評してくれた。報道写真とはこんなものだ、という基
本を学んだ。
五日目は、新聞用語についてのレクチャーに通信部デスクの見学、それに入社式。六日目は、
新聞用語についてのレクチャーを受けたあと、羽田空港へ行き、空港の一角にある朝日新聞航空
部で新聞社所有の飛行機を見学した。
七日目は用語についてのレクチャーと校閲部の見学。八日目から十日目までの三日間は連絡部
の見学だった。連絡部とは東京本社の各部で書かれた原稿や連絡事項を大阪、西部、名古屋の各
本社(西三社といった)に流したり、西三社や地方の各支局からの原稿や連絡事項を東京本社の
関係各部に伝達する部署。人間でいえば、いわば血液や神経のような役割を果たすところだ。
これで研修は終了。旅費を支給されて、日曜日の夜、上野発青森行きの急行に飛び乗ったとい
うわけだが、研修が終わった時の通信部長の訓話をいまでも覚えている。それは「諸君としては
もう少し研修を積んでから支局での仕事を始めたいと思っているだろうが、会社としては早く支
局に行ってもらうことにした。というのは、五月に総選挙が予定されており、支局は早急に人手
を必要としているから」というものだった。
支局員の定員は一定している。新しい支局員が赴任するということは、その支局に一人の離任
者(転勤者)があったということだ。だから、新しい支局員が支局に赴任するまでは一人欠員と
いうわけだ。まして、ネコの手も借りたいほど多忙な総選挙が間近。本社が一日も早く新入社員
を支局に派遣したいというのもそんな事情があったのだ。
が、時がたつにつれて、私は、新米記者を一日も早く地方支局へ出すという本社の方針には総
選挙が近いという理由のほかに、実はもっと別な狙いがあり、その方が編集幹部のほんとうの腹
のうちではなかったか、と思うようになった。
それは、こういうことだ。新聞記者は机上で「ああだ、こうだ」、あるいは「ああだろう、こ
うだろう」と頭で考えて記事を書くようなことはやめろ。それよりも、まず現場に飛べ。そし
て、自分の目で事実を確かめてから記事を書け。百聞は一見に如かず。要するに、新聞記者には
頭でっかちの観念的な理屈など必要ない。想像で原稿を書くな。伝聞で原稿を書くこともやめ
よ。あくまでも自分の体を現場に運び、事実を確認してから書け。
編集幹部としては、こうした考えから、新人研修でレクチャーを長々と続けるよりは新米記者
を一日も早くニュース取材の第一線に放り込みたかったのではないか。
新聞社の新人記者教育はきっとそういうものなんだろう、と私なりに理解した。だから、ある
時、支局の先輩記者が私に「体で覚えるものなんだよ、新聞記者は」と話しかけてきた時、私は
その意味するところをたちどころ理解できたのだった。
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