もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第1部 心構え、あるいは心得
1958年当時の朝日新聞盛岡支局
朝日新聞社に入社した私は、一九五八年(昭和三十三年)四月十四日、盛岡支局に赴任し、新
聞記者としてのスタートをきったが、初日は全くあわただしい一日だった。
盛岡市街の中心地には、岩手県庁、県議会議事堂、県立図書館、盛岡地方裁判所、盛岡市役
所、盛岡警察署などの官庁が集中していた。いわば、岩手の霞ヶ関といった趣だった。 岩手県
庁の裏手に不来方(こずかた)通りという車だと一方通行の狭い道があり、盛岡支局はそのなか
ほど、通りに面したところにあった。
支局は、木造モルタルの二階建て。一階が支局事務所、二階が会議室。一階の玄関わきに支局
専用車のジープのガレージがあり、支局事務所の奥は支局長住宅となっていた。
支局事務所のフロアの真ん中にはストーブが燃えさかっていた。薪ストーブだった。そのわき
に大きな六角のテーブルがあり、その上には電話機や鉛筆立て、灰皿、電話帳などが雑然と置か
れていた。来客用の応接セットもあった。
私以外の支局員は四人と聞いていた。私が、駅まで出迎えてくれた支局長と原稿係とともに支
局に着いた時、そこにいた支局員は一人。すでに午前十時ごろだったが、他の支局員はまだ出社
していなかった。岩手は朝刊だけで夕刊がない地域なので、支局員の出社時間は夕刊がある地域
の支局に比べて遅かったのだ。それに、下宿から取材先に直行する支局員もいたから、当時の盛
岡支局は、午前中は閑散としていたというわけである。
私の最初の仕事は、下宿を訪ね、あいさつすることだった。幸い、支局に出入りしていた朝日
広告社の社員が私のために下宿を探しておいてくれたので、その社員の案内で家主を訪ねた。あ
いさつもそこそこに支局に戻り、赴任前に支局に送り預かってもらっていた布団や、衣類、書物
などを下宿に運び込んだ。そして、再び支局にとって返した。
夕方。支局員が支局に上がってきた。原稿を書く支局員、それに手を入れる支局長(記者の書
いた原稿に手を入れるのは通常はデスク=次長の業務だが、当時の盛岡支局は少人数のため、そ
の業務を支局長がしていた)。それを東京本社に専用電話で吹き込む支局員、現像・焼き付けし
たばかりの写真を電送する原稿係……。いっとき、それは戦場のようだった。
それは、熱気が立ちこめ、しかも緊迫感に満ちた、極めてエキサイティングな光景だった。私
はなすすべもなく、ただ眺めるしかなかった。が、自分もその場の雰囲気に次第に飲み込まれ興
奮気味になってゆくのを感じていた。
夜八時すぎから、八幡という盛岡一の繁華街にある料亭「小原家」で、私の歓迎会があっ
た。支局長と支局員全員が私のスタートを祝ってくれた。先輩記者たちの心遣いが心にしみた。
よし頑張ろう、という気概がみなぎってくるのを感じた。
みな、したたかに酔った。午前零時近くにお開きになると、タクシーに分乗して帰途につい
た。私も先輩記者と一緒にタクシーに乗ったが、朝からの疲れからか、睡魔に襲われ、運転手の
「お客さん、次はどこですか」という声に目が覚めた。車内には私一人。先輩記者はそれぞれ下
宿前で降りてゆき、私だけが取り残されてしまったのだ。
が、はたと困った。昼間、下宿を訪ねた時、その詳しい住所を聞くのを忘れたからだった。下
宿にたどりつけないとなると、支局に泊まる以外ない。で、タクシーに支局まで送ってもらっ
た。ところが、支局の玄関は閉まっていて、入れない。昼間、支局が閉まっている時の入り方を
教えてもらっておくべきだったのだが後の祭り。
やむなく、私は盛岡駅まで行き、駅前の旅館に泊まった。朝起きると、酒酔いでまだ頭が痛
い。旅館にいてもしょうがないので、駅の待合室へ行き、時間をつぶしていた。
その時である。消防車のサイレンがけたたましく鳴り響き、市の中心部に向けて突進してゆ
く。それについて駆けてゆくと、繁華街でキャバレーが燃えていた。
支局に電話をかけた。一刻も速く知らせた方がいいと思ったからだ。「火事です」。電話に出
た先輩が畳み込んできた。「どこなんだ」。前日この町にきたばかりの私には、即答することが
できなかった。新聞記者としては落第だ。支局に行くと、「岩垂君、ただ火事だといわれてもな
あ」と、先輩に笑われた。そうだ。新聞記者になったんだから、火事見物の野次馬に「ここは何
町ですか」と聞いてから、支局に通報すべきだったのだ。
なんともとんまな記者生活のスタートだったが、私は一つの教訓を学んだ。新聞記者としてど
じを踏まないためには、多忙な中にあっても、絶えず神経を張りつめて自分の存在を客観視し、
自分が置かれている状況を正確に把握していなくてはならないと。
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