もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第154回 アジアへの関心――シンガポールで見た「日本の過去」
著者の松本直治さん(右は筆者)=1994年4月28日、富山市で
 松本直治著「大本営派遣の記者たち」
 の表紙




 一九九二年(平成四年)五月八日、私たち「熱帯雨林の現状と未来を見る旅」の一行はマレーシア・東マレーシア(ボルネオ島)のサラワク州ビンツルを発って空路でシンガポールへ向かった。来た時と同じコースで日本に帰るのでは芸がないので、シンガポールを経由して帰ろうというわけだった。

 シンガポールには二泊。この間、「旅」参加者は思い思いの時間を過ごしたが、私は朝日新聞関係者に会ってシンガポール事情を聞いたり、かねて関心をもっていたシンガポール生協の店を見学したりして時を過ごした。
 ここに滞在中にぜひ訪ねてみたいと思っていたところがあった。太平洋戦争開戦直後のシンガポールで行われた日本軍による「華僑虐殺」を記念する碑があると聞いていたからである。

 シンガポールを含むマレー半島は英国の植民地だったが、太平洋戦争を始めた日本軍は一九四一年(昭和十六年)十二月八日、マレー半島に上陸すると一気に南下し、半島突端のシンガポールへ迫った。二月十五日には英軍が降伏し、シンガポールは日本軍の手に落ちた。その直後、日本軍による「華僑虐殺」があった。シンガポールの中学教科書は、こう書く。
 「日本人は中国人を憎み、虐待した。彼らは、中国で中国人を敵に戦っていた。日本人は、シンガポールにいる中国人が日本と戦う中国を援助するために金を送ったことを知っていた。日本人はまた、中国人の義勇兵達が、日本人に対して猛烈に戦ったことも知っていた。彼らに敵対した中国人を排除しようとして、日本人はシンガポールにいる中国人を処罰した。全ての中国人、特に18〜50歳前後の男達は、特定のセンターへ日本軍によって“検証”されるために出頭しなければならなかった」
 「何千人もの中国人はトラックで連れ去られた。彼らはたいていはチャンギ海岸と他の東海岸地域に連れて行かれた。そこで彼らは射殺された。死ななかった者は銃剣で死ぬまで刺された」(石渡延男・益尾恵三編『外国の教科書の中の日本と日本人』、一光社、一九九〇年)
 その時の“検証”の犠牲者数については、いまなお日本とシンガポールの双方で諸説があり、確定していない。シンガポールの学者が著した『日本軍占領下のシンガポール』(編=許雲樵・蔡史君、訳=田中宏・福永平和、青木書店、一九八六年)によれば、日本の教科書では六千人以上となっているが、シンガポール側では一般的に四、五万人が虐殺されたと推計されているという。いずれにしても、日本軍によって多数の中国人が殺害されたことは確かのようだ。
 同書には、こうした犠牲者の遺骨を収集して葬った追悼碑「日本占領時期死難人民紀念碑」が一九六七年にシンガポールの中心地に建立されたとある。
 私は、これらの文献を読んでいたから、機会があればこの「日本占領時期死難人民紀念碑」を訪れたいと思っていたわけである。
 
 日本を発つとき、旅行社からもらったシンガポール政府観光局発行の観光案内『シンガポール』を見ても、この碑のことは載っていなかった。日本人観光客には見せない方がいいとの方針からだろうか。そこで、タクシー運転手に碑のことを告げると、連れて行ってくれた。
 それは、街の中心部の一角にある公園のようなところにあった。白っぽい細くて長い四本の柱が天空に向かってそそり立つ。それが「日本占領時期死難人民紀念碑」だった。高さ六七・七メートル。四本の柱は、忠、勇、仁、義を体しており、同時に互いに団結してきたシンガポールの多元的民族と、その文化および宗教を象徴しているそうだ。
 台座には英文が刻まれていた。『日本軍占領下のシンガポール』によれば、それは「一九四二年二月十五日より一九四五年八月十八日まで、日本軍シンガポールを占領せり。わが住民で無実のうちに殺害された者の数とうてい数えきれず。二〇余年を過ぎたいま、ようやく遺骨を収集し、ここに丁重に葬り、この碑を建立してその悲痛を永久に誌す」と読める。 
 
 私は、日本人の一人として居たたまれない気持ちに陥り、しばし碑の前に立ち尽くした。碑の周辺にはほとんど人影がなかった。街のあちこちで日本人観光客をみかけたが、ここを訪れる日本人に出会うことはなかった。

 シンガポールにおける「華僑虐殺」を知っている日本人は少ない。そう感じていた私は、「日本占領時期死難人民紀念碑」をこの目で見てからは、「虐殺」の事実を多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。が、そのきっかけがなかった。
 機会は、ひょんなことから巡ってきた。シンガポールに立ち寄ってから二年後、北陸の出版社から刊行された一冊の本が目にとまった。富山市の桂書房から出版された松本直治著の『大本営派遣の記者たち』である。
 松本さんは当時、八二歳。北日本新聞社(本社、富山市)の編集局長、論説委員長、役員を経て相談役を務めていた。
 松本さんはこの手記の中で、シンガポールで目撃した日本軍による「華僑虐殺」の模様などを半世紀ぶりに明らかにし、「私もまた、マスコミの末端にあるものとしてペンをもって戦争遂行の機運を担い、あおった責任は免れ得ない」と自らを省みていた。

 松本さんによると、北日本新聞社に入るまでは国民新聞(東京新聞の前身)の記者だったが、一九四一年暮れ、国民徴用令により陸軍報道班員の第一陣としてマレー半島に派遣された。一行は新聞記者、写真家、画家ら約二百人。作家の井伏鱒二もいた。現地では軍と行動を共にし、戦果の報道や宣撫工作にあたった。
 手記は一年間にわたる現地の体験をつづつたものだが、特に私の目を引いたのはシンガポール陥落直後の「華僑虐殺」を目撃した記述だった。
 「『奸漢狩りがある。一緒に来たまえ、取材の一つになる』と、若い顔見知りの中尉に誘われ、出かけることにした。チャンギ俘虜収容所の近くだった。……鉄網で囲んだ地域の中に壕が掘られていた。深さ一・五メートル、幅二メートル。長さ約百メートルの細長い壕を前に、後手に縛られ数珠つなぎになった約二百人が座らされていた。座った人は次々に目隠しされていくのだが、首を振って拒否する者もいた。日本刀が振り上げられ、首が切り落とされると血が噴き上がり、体が壕の中に落ちる。十人ほど切られるのを見ていたが、気分が悪くなった」

 私は、松本さんを訪ね、話を聞いた。「なぜ、いまごろになって戦争中の体験を書き、発表することを思い立ったのですか」との問いに、松本さんはこう答えた。
 「二年前に宮沢喜一首相が朝鮮人従軍慰安婦問題で公式に韓国に謝罪したり、一年前に細川護煕首相が太平洋戦争を侵略戦争と認めたからですよ。こうした表明がなされるまでになんと長い年月がかかったものかと思った。そして、痛感した。こんなに時間がかかったのも、太平洋戦争の実態を国民が知らないからだと」
 そこで、「旧日本軍がいかなることをしたのかを知らせたい」と、記憶をたぐって書き上げた。「いつか、真実を書き残さねばならない」という新聞記者としての自戒の気持ちを持ち続けていたことも執筆の動機だったという。
 私は、松本さんの新聞記者としての生き方に感銘した。

 松本さんの手記を紹介した私の記事は一九九四年五月二十四日付の朝日新聞社会面に載った。「私もまた、ペンをもって、戦争遂行の機運を担った」「マレー戦線従軍元記者 自己批判の書 静かに反響を呼ぶ」「シンガポール『華僑虐殺』の記述も」の見出しで。
 シンガポールの「日本占領時期死難人民紀念碑」の前で思い立ったことが、ささやかな形ではあるが、ひとまずようやく果たされた思いだった。
                                      (二〇〇九年三月二十日記)

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