もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第152回 アジアへの関心――台湾への旅A
台湾遭害事件の乗組員を助けた楊友旺さんの墓に参拝する「台湾の沖縄史跡を訪ねる旅」の参加者(1991年7月6日、台湾南部の車城で)




 沖縄近現代史研究家で沖縄県浦添市美術館教育・普及主査の又吉盛清さんが主導する「台湾の沖縄史跡を訪ねる旅」は、私にとって極めて収穫の多い旅だった。一八七一年(明治四年)に台湾南部で起きた「台湾遭害事件」をめぐり日本側が事件現場に建立した「大日本琉球藩民五十四名墓」の改修工事に対して台湾側が示した反応から、台湾の人たちが今なお日本に対して抱いている心情の一端に触れることができたのはその一つであったが、沖縄と台湾の歴史的関係に理解を深めることができたのも現地を踏んだからこそ得られた収穫の一つだったと言えるだろう。

 私自身、本土でずっと暮らしてきたから、沖縄と台湾の関係に興味をもつこともなかった。両者は地理的に近いな、ということぐらいの知識しかなかった。
 沖縄生まれの又吉さんが台湾に関心を抱いたのは、沖縄から近いからだけではなかった。地理的に近いだけに古い時代から台湾と沖縄が互いに深く影響し合ってきたことに気づき、台湾に対し改めて関心を深めたという。このため、三十数回にわたって台湾に渡り、沖縄にゆかりのある土地を歩き、現地の人々から話を聞くうちにいろいろなことが分かってきたという。
 まず、昔から住民同士の間で活発な交流があったことを確認できた。が、同時にそれまで気づかなかった事実が見えてきたという。
 「日清戦争に勝った日本が台湾を領有するようになるのは一八九五年からです。それから一九四五年まで五十年にわたって日本による植民地支配が続くわけですが、その支配の先兵の役割を担わされたのが沖縄人だったんですよ」
 
 又吉さんによると、台湾領有後、明治政府が台湾植民地支配の地ならしとして派遣した人たちの中に沖縄人も含まれていた。まず、抗日の武装蜂起を鎮圧するために警察官を派遣したが、その中に沖縄出身の巡査がいた。次いで、兵舎、道路、港湾、鉄道、病院などの建設にあたる土木作業員や、台湾の人々に同化、皇民化教育を施すための教員、日本人相手の売春婦らが送り込まれたが、その中にも沖縄出身者がいたという。
 敗戦時の台湾在住日本人は約五十万。うち三万人余が沖縄人だったのではないか、というのが又吉さんの推計である。

 又吉さんは語った。「霧社事件の実相を明らかにしようと、台湾の山の人と話していたら、彼らが言ったんですよ。日本統治時代には、よい沖縄の人と悪い沖縄の人がいたと。つまり、山の人を弾圧したり、排除、差別する側にいた人と、彼らに優しかった人がいたというんですね。ショックでした」。「山の人」とは先住民のことである。
 
 こうした経験から、又吉さんは一つの認識に達する。「沖縄人はこれまで自らを被害者とばかり思い込んできたが、実は加害者でもあったのだ」と。
 又吉さんによれば、沖縄人については、それまで、どちらかというと、被害者的な面が強調されてきた。琉球王国時代には薩摩による支配を受けたばかりか、明治維新後はいわゆる琉球処分によって日本に組み込まれたからである。そのうえ、第二次大戦中は日本で唯一、地上戦の舞台となり、住民は多大な犠牲を強いられた。そればかりでない。戦後は、三十年近くにわたって米国による異民族支配を受けた……
 このため、沖縄人が被害者意識にさいなまれてきたのも無理はなかった。 が、その沖縄人が台湾の民衆に対しては加害者であったとは。又吉さんが提唱した「台湾の沖縄史跡を訪ねる旅」も、実は沖縄人が、自らの台湾への加害の歴史を知るための旅でもあったのだ。
 
 私が参加した七回目の「旅」も、行く先々で、沖縄の人が台湾植民地支配の先兵の役割を担わされた歴史に出合った。とくにその感が強かったのは、台湾海峡に浮かぶ澎湖島での見聞だった。
 又吉さんによると、澎湖島は沖縄人ととりわけ深いかかわりをもったところだったという。日清戦争で日本軍がこの島に上陸した時もそれに沖縄出身者が加わっていたし、その後も、沖縄出身の巡査や教員がこの島へ渡ったという。同島を支配するために澎湖庁が設置されたが、歴代の庁長に登用された官吏に沖縄出身者もいた。「旅」参加者は日本軍が上陸した港や澎湖庁舎跡などを見て回った。
  澎湖島は三つの大きな島からなり、その一つの島の突端に旧日本軍が築いた大規模な砲台の跡があった。砲台は果てしない海に向けて造られていた。それを見て、澎湖島が、日清戦争後の日本にとって重要な軍事拠点となっていたことが実感できた。

 「旅」に参加した元公務員は「沖縄と台湾との歴史的な関係がよく分かった。実にためになる旅だった」と語った。また、別の参加者は「何事も複眼的にみなくてはならないことを学んだ」と語った。この旅は、沖縄の人たちにとっては単なる観光旅行でなく、さまざまなことを学ぶことができた有意義なツアーだったのではないか。私にはそう思われた。
 私の記事は、九一年七月二十五日付の朝日新聞夕刊に載った。「沖縄県人、台湾で自らの歴史問い直す旅」「被害者のつもりが、加害者でもあった……」「植民地支配の先兵に利用され、弾圧にも加わる」の三本見出しで。

<霧社事件>一九三〇年(昭和五年)十月二十七日、台湾中部の霧社周辺の山地民約三百人が日本の植民地政策に反対して日本人運動会が開かれていた小学校などを襲い、日本人百三十四人が犠牲になった。日本は軍隊などを動員して鎮圧にあたり、山地民側の死者は六百人以上に及んだとされる。                  
                                     (二〇〇九年二月二十四日記)

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