もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第151回 アジアへの関心――台湾への旅@
台湾南部の車城にある「琉球藩民五十四名墓」。上部の「大日本」の文字はセメントで消されている。右から3人目が又吉盛清さん(1991年7月6日写す)




 ソ連・東欧諸国を中心とする社会主義陣営の崩壊を機に、私の関心は協同組合、協同組合運動に向かったが、もちろん、私の関心はそこにとどまらなかった。アジア諸国に対する関心もまた私の中で高まった。なぜなら、米ソ二大超大国が対決していた東西冷戦時代は、私の関心はどちらかというと、厳しい米ソ対決の谷間にあって日本はどう平和を維持してゆくべきかというところに焦点が行きがちだったが、米国一極体制になった今、私の関心は日本はこれから近隣諸国とどう平和的に共存してゆくか、という点に移っていったからだった。つまり、日本のこれからの安全保障は、ひとえに近隣諸国との間でどう友好的な関係を築いてゆくかにかかっているのではないかとの思いが強くなっていったのだった。
 それには、まず、明治維新以降の近代日本がアジアの諸民族にどう対してきたかを知らなくてはと思った。それまでに訪れたアジア諸国といえばソ連、中国、ベトナム、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)だったが、それ以外のところにも行き、そこに暮らす人々の対日観を知りたいと考えた。

 そう思っていた時、格好の機会がやってきた。沖縄近現代史研究家で沖縄県浦添市美術館教育・普及主査の又吉盛清さんを講師とする「台湾の沖縄史跡を訪ねる旅」が行われるとの情報がもたらされたからだ。又吉さんとは、沖縄取材を通じて知り合った仲だった。
 又吉さんは1960年代から沖縄と台湾のかかわりに注目し、それまでに三十数回も台湾に渡り、沖縄にゆかりの深い土地や遺跡を訪ね歩いてきた。「台湾は沖縄から近い。歴史的にも関係が深い。沖縄県人が台湾と交流を進めるためには、まず沖縄側が台湾のこと、とりわけ台湾と沖縄とが過去にどんな関係にあったかを知る必要があるのでは」と「台湾の沖縄史跡を訪ねる旅」を計画、これに那覇市の出版社や旅行社が賛同し、1987年から「旅」が始まった。これまでに六回の「旅」が行われ、その参加者は約二百五十人にのぼるとのことだった。「台湾を訪ねるチャンスはそうめぐってこない。ぜひ、その旅に参加してみよう」。私はすかさず同行取材を申し込んだ。

 私が参加した七回目の「旅」は、一九九一年七月五日から四泊五日。那覇から空路で台北へ向かい、そこから台南―車城―台湾最南端の岬―高雄―澎湖島―台北と回った。参加者は十七人。本土からの参加者は私を含めた二人、あとは沖縄の人たちだった。

 台湾滞在中は、見るもの、聞くもの、すべてが興味深かった。とりわけ、かつて日本と関係があった事物に興味を覚えた。なかでも私に最も強烈な印象を残したのは、車城で見学した「琉球藩民五十四名墓」だった。「台湾遭害事件」と呼ばれる事件にからむ墓である。
 これは、一八七一年(明治四年)、琉球(沖縄の別名)の首里王府に貢ぎ物を納めた宮古の貢納船が那覇港から宮古に帰島する際、洋上で台風に遭って台湾の東部海岸に漂着し、乗組員六十九人のうち水死を免れた六十六人が山中に迷い込み、五十四人がパイワン族に首をはねられて死亡した事件。十二人は漢民族に助けられ、那覇に帰ることができた。
 当時、琉球が日本に帰属しているのか、清国(中国)に帰属しているのかが問題になっていた。明治政府は「琉球人民の殺害されしを報復すべきは日本帝国の義務」として、一八七四年(明治七年)、三千六百人の軍団を編成して台湾に派兵し、パイワン族を攻撃した。近代日本による初めての海外出兵だった。
 その時、日本軍は貢納船乗組員の墓を現地に建立した。花崗岩の墓石には「大日本琉球藩民五十四名墓」と刻まれていた。高さ一四五センチ。「琉球藩民」の上にあえて「大日本」をかぶせたのは、琉球は日本に帰属しそこの住民は日本国民だという当時の明治政府の主張の表れだった、とみていいだろう。

 その後、琉球、台湾、日本の三者をめぐる関係は大転換を遂げる。日本の台湾出兵から五年後の一八七九年(明治十二年)には、日本政府が琉球を日本の一つの県(沖縄県)にしてしまう。いわゆる琉球処分である。清国がこれに抗議したのはもちろんだ。一八九四年(明治二十七年)には日清戦争が起こり、勝利した日本は翌一八九五年、台湾を領有する。台湾に対する日本の植民地支配は、一九四五年(昭和二十年)の日本敗戦まで五十年にわたって続く。
 それだけに、この墓は近代日本が海外に進出してゆく起点ともなったモニュメントなのだ、と又吉さんは墓のかたわらで「旅」参加者に語った。

 その説明を聞きながら、墓石を見上げた私は「あっ」と思った。「大日本琉球藩民五十四名墓」という文字のうち「大日本」の三字が、白いセメントで塗りつぶされていたからだ。
 又吉さんの説明はこうだ――又吉さんが初めてこの墓を訪れたのは一九七八年。その時、墓はつる草に覆われて、足の踏み場もないほどに荒れ果てていた。墓地の石塀も崩れ落ち、雑草や樹木が伸び放題となっていた。心を痛めた又吉さんが乗組員遺族、乗組員の関係市町村、沖縄県、台湾の関係当局に働きかけたことから墓地の改修が始まり、一九八二年に完成したが、改修工事がすべて順調にすすんだわけではなかった。
 というのは、改修にあたって台湾当局が又吉さんに「大日本琉球藩民五十四名墓」の碑文から「大日本」の三文字を切断し、墓銘は「琉球藩民五十四名墓」だけにせよ、と伝えてきたからだ。又吉さんは「墓は建立から百年以上もたっており、歴史的遺産である。琉球(日本)と台湾の関わりを現在と後世の世代に語り継ぎ、正しく歴史を教訓化する史跡として、完全な形で保存したい」と理解を求めたが、台湾当局は認めず、結局、「大日本」の三文字にセメントを流し込み判読できないようにすることで折り合いがついたという。

 又吉さんによれば、「大日本」の三文字は、台湾の人たちには、日本に侵略された屈辱の歴史や、日本による五十年にわたる植民地支配のシンボル的なものとして映っており、いまなお台湾の人たちの心情を刺激するという。また、台湾当局は現在でも政治的には琉球の「日本帰属」を認めていないところがあり、それだけに「琉球藩民」の上に「大日本」を置くことを認めると、まさに琉球の「日本帰属」を認めることになりかねず、到底承服しがたいことであったのだ、と又吉さんは言う。

 墓石の、白いセメントを流し込まれたところを見つめていると、台湾の人たちの心情がひたひたと伝わってくるようだった。そして、日本に侵略されたアジアの諸民族の心情の一端に触れた思いがした。私は日本人の一人として何か言いようのない感慨に襲われ、墓のわきに立ち尽くした。そのうち、旅の一行がいなくなったのに気づき、私は無言のまま墓地を離れた。

 近くに乗組員十二人を助けた揚友旺さんの墓があった。一行はここも訪れ、参拝したが、ここでは何か救われたような気持ちになった。
                                       (二〇〇九年二月十五日記)

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