もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第143回 生協の目覚ましい成長に驚く
静岡県掛川市の「つま恋」で開かれた全国組合員活動交流集会の開会総会(1990年6月27日)  生協運動の主役は女性だ(1990年6月27日、静岡県掛川市の「つま恋」で開かれた全国組合員活動交流集会で)




 資本主義と社会主義に代わる経済システム、すなわち「第三の道」とされる協同組合に関心をもった私は、協同組合の実態を知ろうと、まず、いろいろある協同組合のうち生活協同組合(生協)の取材を始めた。一九九〇年(平成二年)からだ。
 
 文献で勉強することも大切だが、生協にじかに触れてその実体を知るのが手っ取り早いだろうと考え、当時代表的な生協とされていた単協(単位生協)を見て回り、関係者の話を聞いた。当時、事業規模で世界一といわれた灘神戸生活協同組合(その後、コープこうべと改称)をはじめ、灘神戸生協に次いで日本第二位の事業規模といわれたコープさっぽろ、エフコープ(福岡市)、名古屋勤労市民生活協同組合(めいきん生協)等々……。
 また、このころ、生協の全国組織である日本生活協同組合連合会(日本生協連)が年に二回、全国から生協組合員を集めて「全国組合員活動交流集会」を開いていたので、それをこの目で見るべく出かけて行った。おかげで、九〇年六月には静岡県掛川市の「つま恋」、九一年一月には千葉県幕張メッセ、九二年二月には京都の立命館大学を訪れる機会があった。
 さらに、日本生協連が毎年一月に全国から東京に単協代表を集めて開く政策討論集会や、毎年六月に開く総会も欠かさず傍聴した。
 
 こうした取材を通じて、私は次第に生協に対する理解を深めていった。それまで、生協についての知識といえば、早稲田大学に在学していたころ、文学部の地階にいろいろな物を売っていた生協の売店があったな、そこで、ばら売りのタバコを買ったことがあったな、政経学部の地階には生協直営の食堂があり、よく利用したものだ、といった程度だった。今回、各地の生協を見学したり、生協関係の集まりなどを見聞して初めて生協というものの実態に触れることができたわけである。
 そこで得た認識をいえば、生協とは、地域住民や職場で働く人たちが自主的にお金を出し合ってつくった事業体であり、その狙いは消費生活に必要な物資を共同して購入することにある、ということだった。組合員への消費物資の供給には、二つの方法があるようだった。まず、生協が店舗を構えて組合員に物資を売るという行き方、もう一つは組合員たちが班をつくって消費物資を共同購入するというやり方だ。九一年度の供給高の内訳は店舗47%、共同購入45%だった。
 そればかりでない。各地の生協も、その連合会も、「平和」「環境保護」「福祉」「男女共同参画」などといった多様なテーマを掲げた社会運動に取り組んでいた。つまり、生協は単なる企業体でなく、運動体という側面も備えた組織なのだ、と私は理解した。これは、私にとって新しい発見であった。

 生協が株式会社のような営利を目的とした企業体でないことは、別な面から知ることができた。
 ある組織が「協同組合」を名乗るからには、協同組合の世界組織である国際協同組合同盟(ICA)が定めた協同組合原則を守ることが求められる。つまり、ICA原則を順守してこそ協同組合として認められるのだ。私が生協の取材を本格的に始めた九〇年ころのICA協同組合原則は、次の六項目で、ICAの第二十三回大会(ウィーン大会)で決まったものだった。
 
 1 加入・脱退自由の原則。協同組合の組合員であることはあくまでも自由意思によるべきだ、ということである。
 2 民主的運営の原則。協同組合は民主的組織であるべきで、単位組合ではものごとの決定にあたっては組合員は平等の投票権(一人一票)をもつ。
 3 出資配当制限の原則。出資金に利息が支払われる場合でも、その利率は厳格に制限される。
 4 剰余金処分方法の原則。組合の事業で剰余金が出た場合は、「事業の発展のための準備」「共同のサービス施設」「組合利用高に比例しての分配」のために使う。
 5 教育活動促進の原則。組合員、役員、一般民衆に対して協同の原則について教育を行うための準備金をつくらなくてはいけない。
 6 協同組合間の協同の原則。すべての協同組合組織は積極的に他の協同組合と協同すべきである。

 私は、まず協同組合が「一人一票」制をとっていることにひかれた。株式会社では、何事も所有する株の多寡で決まる。それと比べると、協同組合が極めて民主的な組織であることが分かる。要するに、協同組合は株式会社などの一般企業と異なり、組合員一人ひとりが主人公という位置づけなのだ。
 それから、「出資配当制限」の原則にも関心をそそられた。株式会社では、利潤が出れば株式数に応じて配当する。そこでは、利率に制限はない。が、協同組合では、出資配当に際しては利率の最高限度を設け、これを超えた配当はできない。つまり、協同組合は金儲けのための事業体でなく、共通の目的を実現するための非営利の事業体であると明確にうたわれているのだ。その延長線上だろう。剰余金を組合員同士で分配してしまうことは禁じられており、組合員共通の利益のために使うよう定められている。
 
 こうして、私の生協に対する認識は次第に深まっていったわけだが、その実態を知れば知るほど驚いたのは、その目覚ましい発展ぶりであった。
 日本生協連によると、九一年度の同生協連加盟の生協は六七〇。組合員総数は一五一〇万人。出資金は二七四〇億円。事業高(売上高)は三兆〇三七一億円。小売りでのシェアは二・六%。七〇年度を起点とすると、組合員総数は五・二倍、出資金は二六・九倍、事業高は一六・六倍。
 世帯組織率をみると、七一年度で二・六%であったのが九〇年度には二一・九%に。生協に加入している世帯はいまや五世帯に一世帯という割合になったのだった。
 組合員総数の一五一〇万人は、農協組合員の八二六万人、日本労働組合総連合会(連合)の八〇〇万人をはるかに上回る。生協はなんと日本最大の市民組織になっていたのだ。その大半は女性、それも主婦であった。
 九〇年度時点での日本の総合スーパーの売上高ランキングは、第一位がダイエーで約一兆八四〇〇億円、第二位がイトーヨーカ堂で約一兆三五〇〇億円。生協全体の売上高はこれらをしのぐ。生協は、いまや流通業界では大手スーパーと並ぶ存在なのだった。
 
 生協先進地の西ヨーロッパでは、一九七〇年代から八〇年代にかけて生協が軒並み倒産や経営不振に陥った。これに比べると、日本の生協は驚異的な成長を続けてきたといってよかった。
 飛躍的な成長をもたらした原動力は何なのか。一つは、七〇年代に社会問題化した食品添加物問題が生協陣営の拡大をもたらしたという見方だ。この時期、有害な添加物を使用した食品がはんらんし、主婦たちを恐怖に陥れた。このため、生協陣営は有害食品の追放に乗り出し、その一方で自ら有害添加物を極力使わないコープ商品を開発して供給に努めた。こうした努力が主婦層に支持、歓迎され、生協に加入する主婦が爆発的に増えたというわけである。
 この間、日本生協連が反核平和運動に強力に取り組んだことも、生協組合員の増加につながったという見方もある。このころは、米国とソ連という二大超大国による核軍拡競争が激化し、世界的な核戦争が勃発するのではという危機感が世界に広がっていた時期。家庭の主婦もそうした危機感を共有していたから、生協による「核兵器廃絶」の訴えが多くの主婦の心をつかんだというわけである。この結果、生協は日本の反核平和運動で、原水協、原水禁と並ぶ運動の主役となった。
 
 「生協が組合員中心の運営を心掛けてきたからだ」という見方もあった。生協の実情に詳しい人は、その具体例として「班による共同購入」をあげた。これは、五人から十人の組合員で班をつくり、食品などを共同で購入するシステム。班のメンバーから注文のあった商品を生協職員が週一回、車で班の責任者宅にまとめて届け、そこで班のメンバーがそれぞれ注文の品々を受け取る。メンバーが集まって商品を仕分けする場所は、さながら主婦による井戸端会議場となった。
 生協をよく知る人によれば、これは日本で編み出された、世界で類例のない供給システムで、これが主婦らに好んで受け入れられたことが生協の成長につながったという。九〇年度で全国に一〇四万の班があり、班員の総計は約六〇〇万人にのぼった。当時、日本生協連の役員の一人は「一八四四年にイギリスのロッチデールで初めて生協が誕生して以来、協同組合の基本は、組合員による出資・利用・運営という三位一体にある。班による共同購入という形態は、こうした基本を体現したものだ」と自賛したものだ。

 日本最大の市民組織となった生協。小売業界でのシェアはまだ微々たるものであっても事業高で大手スーパーと肩を並べるまでになった生協。それに社会運動の担い手としても存在感を増しつつある生協。これから先、さらに発展すれば、資本主義にとって代わることができなくても、市場経済の暴走を少しはくい止め、併せて社会の諸課題の解決に寄与する社会勢力となることができるのではないか。私が生協に寄せる期待は膨らんで行った。
 日本の生協活動に期待を寄せる声は海外でも聞かれた。ICA関係者もまた、日本の生協に熱い視線を注ぎ始めていた。
                                            (二〇〇八年七月六日記)

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