もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
トルファン郊外の火焔山をバックに。左端が筆者(1987年7月) |
一九八七年七月のシルクロード探訪で強く印象に残ったことは、まだある。
それは、苛烈極まる自然環境だ。
シルクロードの一本、天山南路(北道)の南方に広がるタクラマカン砂漠は、世界で二番目に広い巨大な砂漠である。一望千里とはこういうことかと思い知らされるほど、北方に遠く望む雪をいただいた天山山脈のほかは、見渡す限りほとんど平坦な砂と砂礫の砂漠だ。降雨量は年間数十ミリというから、カラカラに乾ききった砂漠である。
乾いた砂漠に太陽の光が注がれれば、砂漠は暑熱の砂原と化す。トルファン郊外にある城址遺跡を訪ねた時、遺跡周辺の地表温度は五〇度近くを示していた。遺跡の北方には火焔山があった。風化によって深いしわが刻まれた山肌は、思わずしばし見入ってしまったほど赤い。夏季になると、地表から立ちのぼる、高熱による陽炎によって燃えるように見えるところから火焔山と呼ばれるようになったとのことだった。火焔山はあの『西遊記』にも登場するそうだ。
カシュガル郊外約三〇キロの砂漠の中に古い仏教遺跡があるというので、車を雇って出かけた。崩れかけた仏塔を見ての帰り、突然、砂嵐に襲われた。一転、空が暗くなり、砂を交えた突風が吹きつけてきた。視界がきかなくなったので、車を止め、砂塵が入ってこないよう窓ガラスをロックして、砂嵐がやむのを待った。
つぶてのような砂礫の固まりが車のボディに当たって、ブス、バシッと音をたてる。妻も妻の友人もひどく不安げな顔つきをしていた。「こんなところにた長くとどめ置かれたらどうしよう」。一瞬、不安がよぎったが、ほどなく暗い空が明るくなった。が、空は舞い上がった霧状の砂塵で茶褐色に濁っていた。
私はその時、東晋の僧、法顕の旅行見聞記の一節を思い出していた。三九九年、当時六十五歳の法顕は律蔵(釈尊が制定した戒律を収めた教典)を求めて長安を出発、インドへ向かった。天山南路の途中からタクラマカン砂漠を南下してホータンに至り、そこからパミール高原を越えてインドに達したとされている。
鎌田義雄著『仏教のきた道』(原書房)によれば、タクラマカン砂漠を通った時の情景を次のように記している。
「上に飛鳥なく、下に走獣なし。四顧茫茫(しこぼうぼう)として之(ゆ)く所を測(はか)る莫(な)く、唯、日を視て以て東西に淮(なぞら)へ、人骨を望んで以て行路を標するのみ。屡々熱風悪鬼あり、之に遭へば必ず死す」
まさにシルクロードは「死の道」だったのだ。タクラマカン砂漠そのものが、ウイグル語の「タッキリ(死)」「マカン(無限)」の合成語と言われる。
当時は、もちろん、自動車などなかった時代だ。交通の手段は、ラクダやロバだったに違いない。それに、徒歩か。通行の困難さ、その苦労がしのばれる。
こうした苛烈な自然に抗して、シルクロードを旅した先人たち。彼らを突き動かしていたものはいったい何だったのか。彼らをして凶暴なまでの自然の猛威を耐えさせたものは何だったのか。珍品や貴重品の売買で金儲けをしたいという執念だったのか、生活上の必要からだったのか、それとも敬虔な信仰だったのか、あるいは単なる冒険心や未知のものへのあくなき探求心だったのか。私としては想像するほかなかったが、「死」の危険に直面しながらもシルクロードの往来に挑戦した人々の情熱、執念に圧倒された。
シルクロードが古来から続いてきた東西文明交流路であることをこの目で確認できたことも、私にとって収穫であった。
よく知られているように、この東西文明交流路が「シルクロード」と呼ばれるようになったのは、当時、珍重されていた中国産の絹がこの交流路を通って中央アジアやヨーロッパへ運ばれたからだと言われる。一方、ヨーロッパや中央アジアからはさまざまな文化や文物が東アジアへ運ばれたとされる。その終点が、奈良の正倉院だったと、学校で習ったことを思い出す。
仏教が日本に伝来したのもシルクロード経由であったとされる。すなわち、インドからアフガニスタンあたりを経て中国に伝播し、そこから朝鮮半島を経て五三八年ごろ(一説には五二二年)に日本にもたらされたとされる。
カシュガル郊外の仏教遺跡を訪ねたことはすでに述べたが、ほとんど廃墟と化した遺跡を見たとき、仏教がシルクロードを通じて遥か東へと伝わっていったことを実感できた。そうしたことを一層私に確信させたのは、トルファン郊外にあったベゼクリク千仏洞である。これは、火焔山の中腹に掘られた石窟で、六世紀から唐、宋をへて元代(十三世紀から十四世紀)にかけて掘り続けられたとされる。中の壁にはおびただしい仏像が彩色豊かに描かれていた。ただ、その顔はことごとく削り取られていた。ここに進入してきた偶像崇拝を否定するイスラム教徒によって破壊されたとの説明であった。
シルクロードと仏教の結びつきの強さを感じさせられたことはまだある。それは、トルファン郊外に展開する高昌故城を訪れた時の見聞だ。
高昌故城とは高昌城址のことで、高昌城は漢代に築かれた漢人の西域経営の要地だった。日干し煉瓦を積んでつくった城だったが、それから約二〇〇〇年後の今ではそれらが崩れ果てた巨大な廃墟と化し、荒涼たる光景が広がる。地元の人の話では、七世紀に、経典を求めて長安からインドに向かった、中国の僧、玄奘もこの高昌城に立ち寄り、一カ月滞在しているという。
玄奘とは、別の名を三蔵法師という。廃墟と化した城の一角にたたずんでいたら、『西遊記』の世界が、急に身近なものに感じられた。
農産物を見たときも、「農産物の東漸」を感じた。
トルファン郊外では、ブドウが栽培されていた。収穫したブドウを貯蔵する収納庫も目についた。しかも、トルファンはブドウの産地として名高いとのことだった。「砂漠でブドウ栽培?」私にとってはなんとも驚きだった。
なんで砂漠の中の町の名物がブドウなのか。地元の人によれば、それはトルファンがオアシスに開けた都市だからだった。
天山山脈に降った雨は砂漠の地下に吸い込まれ、地下水脈を形成する。その水脈を掘り当てると、一定間隔で竪穴を掘り、それらを横穴で結んで地下水路(カレーズという)とし、人間の住むところまで水を引いてくる。トルファンはこうしたカレーズを利用した都市とのことだった。町を歩くと、カレーズが運んできた豊かな水が水路を流れていた。子どもたちがそこで水遊びをしていた。この水が、ブドウ栽培を可能にしたのだ。
ブドウの原産地はカフカス(黒海とカスピ海に挟まれ、カフカス山脈を中心とした地域)地方から地中海沿岸地方にわたる地域。そこから、インド、エジプト、西ヨーロッパなどに伝えられた。東アジアへの伝播は漢の武帝の時代に西域に派遣された張騫によってもたらされたとされている。そして、日本で栽培されているブドウは中国から渡来したものとされる。
トルファン郊外のブドウ畑を見たとき、私の脳裏には日本で見たブドウ畑が浮かんできた。二つのブドウ畑が私の中で重なった。
カシュガルのバザールではスイカを売っていた。聞けば、カシュガルはスイカの産地という。郊外に出てみると、スイカ畑が広がっていた。その一角に売り場があったので、買って食べてみた。うまかった。
スイカは熱帯アフリカの原産で、その後、地中海沿岸、中央アジア、中近東などへと伝えられ、中国には十一世紀ごろ、中央アジアを経て入ったとされる。日本でもスイカが栽培されきたが、それは中国から伝来したものであろうか、それとも、別のルートで伝来したものであろうか。スイカを味わいながら、そんなことを考えた。
「百聞は一見に如かず」。歴史を学ぶには、それにゆかりのある土地を訪ねてみるのが一番手っ取り早い。私がシルクロード探訪から学んだことの一つは、そういうことだった。
(二〇〇八年一月二十五日記)
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