もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第134回 シルクロードにはまる
トルファンのホテルでは、ウイグル人の少女による民族舞踊が行われていた(1987年7月)

香妃墓(カシュガルで、1987年7月)




 日中共同取材番組の『シルクロード』がNHKテレビで始まったのは、一九八〇年(昭和五十五年)四月である。沈み行く赤い夕陽に照らされた砂漠、そこを行くラクダの隊列。そして、画面から流れ出る、喜多郎作曲のシンセサイザーの流麗な響き……。それらは視聴者を未知の悠久の彼方に導き、日本中にシルクロード・ブームを巻き起こした。
 私もまたこの番組に魅了され、ぜひ一度シルクロードへ、という思いを募らせた。が、私の担当分野はシルクロードとは無縁の分野であり、シルクロード探訪など夢のまた夢だった。
 
 しかし、その後、私はシルクロードへのあこがれをさらに募らせることになる。すでに述べたように、私は一九八六年に東北大学日中友好西蔵学術登山隊学術班人文班の一員として青海・チベットを訪れたが、人文班による学術調査の最大の目的は「もうひとつのシルクロード」の検証にあったからである。
 シルクロードとは、一般的には中国の北西部、現在の陝西、甘粛付近から新彊ウイグル自治区のタリム盆地を通り、ロシア(旧ソ連)、中国、インド、パキスタン、アフガニスタンが国境を接するパミール高原を越える道を指すが、それとは別に中国の長安(いまの西安)とチベットのラサ、さらにラサからネパール・インドを結んだ交通路「縦のシルクロード」があったのではないか、というのが人文班の色川大吉班長の推論であった。
 人文班の調査に同行しながら、私はこう思うようになっていった。「もう一つのシルクロードを探索するというのなら、本来のシルクロードをこの目で見ておくべきだったな。順序が逆になったが、ぜひ一度現地に行ってみたい」
 青海・チベットの旅を終えると、私の「シルクロード願望」は日ごとに強くなっていった。しかし、会社に出張を申請することはしなかった。チベット・青海に長期間特派された直後だけに、また海外取材を申請しても認められるわけがなかったからだ。結局、私は決断した。「よし、休暇をとり、自費で行ってこよう」と。
 が、中国の奥地だけに手がかりがない。日本の旅行社も、このころはまだこの地域へのツアーを売り出していなかった。そこで、青海・チベットの旅を助けてくれた中国側スタッフの一員で通訳を務めてくれた葉業躍君(北京第二外国語学院学生)と連絡をとり、中国の旅行社を紹介してもらった。

 かくして、シルクロードへの旅が実現した。一九八七年七月三日に成田を出発、同十四日に帰国。十二日間にわたる妻と妻の友人を加えた三人旅であった。コースは北京――ウルムチ――トルファン――カシュガル――北京。北京の他はいずれも新疆ウイグル自治区の都市で、ウルムチはその区都であった。
 
 新疆ウイグル自治区は中国の西のはずれに位置する。自治区のほぼ中央を東西に山脈が走る。天山山脈だ。標高は四〇〇〇メートルから七〇〇〇メートル。その南側に広大な盆地が広がる。タリム盆地だ。この盆地の大半は砂漠地帯で「タクラマカン砂漠」と呼ばれる。
 かつてのシルクロードは三本あったとされている。天山山脈の北側にあったのが「天山北路」、同山脈の南側を通っていたのが「天山南路(北道)」、タリム盆地の南端を通っていたのが「天山南路(南道)」。ウルムチは天山北路の沿線に、トルファンは天山南路(北道)の沿線に、タリム盆地の最西端にあるカシュガルは天山南路(北道)と天山南路(南道)の合流点にそれぞれ位置していた。したがって、私たちの旅は、いわば天山北路と天山南路(北道)の沿線をチラッと垣間見た旅だったといってよい。
 
 私たちは北京から空路でウルムチへ。そこから車でトルファンまで往復し、その後、ウルムチから飛行機でカシュガルへ飛んだ。帰路はカシュガルから空路で北京へ戻った。

 私にとっては、見るもの聞くものすべてが興味深かった。「自分で金を払っての取材旅行だったが、やはり来てよかった」と思った。
 さまざまなことが印象に残ったが、まず度肝を抜かれたのは、中国は途方もなく広大で、多様性があるなということだった。
 タリム盆地の最西端のカシュガルは、北京から直線で三〇〇〇数百キロ。一望千里の巨大な砂漠、タクラマカン砂漠の西のはずれにある都市で、中国の隣国のタジキスタン、キルギスの国境に近い。ただっ広い空港に降り立ったとき、「ついに最果ての地にきたか」「はるけくも来つるものかは」といった感慨に満たされたものだ。タクラマカン砂漠そのものが、東西二〇〇〇キロ、南北六〇〇キロ、日本がすっぽり入ってしまうほどの広さ。まさに気が遠くなるような広大さである。
 多様性という面で印象に残ったのは、住んでいる人たちとその文化である。中国というと、私たちは、私たちと見ためがほとんど違わない漢人を思い浮かべるが、新疆ウイグル自治区に住む人たちはそうした漢人でなく、ウイグル人が目立つ。青い目、高い鼻、あごにひげ、帽子といった人が多く、あたかも中東に来たかのような錯覚に陥る。ウイグル人はイラン系と聞いた。
 ウルムチ→トルファン→カシュガルと西に移るにつれて、ウイグル人が多くなる。カシュガルは住民の九割以上がウイグル人とのことだった。「中国は多民族国家だ」という思いをいまさらながら強くした。

 文化における多様性をあげるなら、やはりイスラム文化が色濃く定着していたという事実だろう。カシュガルではイスラム教の寺院が目を引いた。街の中心にはイスラム教寺院で新疆ウイグル自治区最大規模のエイティガール寺院があった。一四二二年の創建とされ、南北一四〇メートル、東西一二〇メートルの巨大な寺だ。
 郊外には、アバク・ホージャ墓があった。十六世紀に新疆イスラム教白帽派の指導者だったアバク・ホージャとその家族の陵墓。乾隆帝のウイグル人妃子だった香妃がここに葬られたと誤って伝えられたため「香妃墓」とも呼ばれる。
 一六七〇年に創建された。墓にたどり着くまでに緑の木立の並木があった。墓は緑のタイルを張りつめた円形アーチの屋根をもち、墓の四隅に建つ尖塔の壁のモザイク模様が青空に映えて美しかった。
 トルファンのホテルでは、イスラム人の若い女性たちが、宿泊客のために民族舞踊を踊ってくれた。ピンクの衣装が鮮やかだった。
 
 生活面でもイスラム色が濃かった。カシュガルでは、バザールを見ることができた。衣類、靴、野菜、果物、肉、楽器などあらゆるものを売っていた。まるで、中東に来たような気持ち。テント張りや屋台の店を見て歩きながら、私は絨毯を買った。「日本まで届くだろうか」とちょっぴり不安だったが、時間がかかったもののちゃんと日本に届き、いまでもわが家の玄関で足拭の役を果たしている。
                                      (二〇〇八年一月十五日記)

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