もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第125回 突然の暗転――原水禁運動が大混乱へ

1984年4月4日付の「赤旗」に載った論文




 閑話休題
 三十九年間にわたって日本共産党のトップの座にあった宮本顕治・元中央委員会議長が七月二十三日、老衰のため九十八年の生涯を閉じた。この訃報に接した時、私の中でとっさに甦ってきたものがあった。いわゆる「八四年問題」についての、忘れがたい記憶だ。「八四年問題」とは、一九八四年(昭和五十九年)にわが国の原水爆禁止運動で起きた紛糾で、その後遺症はいまなお深いが、この問題で宮本元議長が決定的な役割を演じたからである。

 すべては、あの「赤旗」論文から始まった。
 日本共産党の機関紙「赤旗」は八四年四月四、五の両日にわたって『統一の路線と分裂の路線―原水爆禁止運動三〇年の経験と教訓―』という無署名論文を掲載した。それは、おおよそ次のような内容だった。
 @運動が分裂したのは、社会党、総評などの指導部が世界大会に「いかなる国の核実験にも反対」「部分的核実験停止条約支持」など特定の見地を押し付けようとし、それが失敗すると原水協から脱退し、原水禁をつくったからだ。
 A分裂が今も続いているのは、一九七七年に原水協の草野信男理事長と原水禁の森滝市郎代表委員の間で「年内をめどに国民的大統一の組織を実現する」との合意がなされたにもかかわらず、原水禁、総評指導部が、原水協、原水禁をそれぞれ解散して新しい統一組織をつくることに反対してきたからである。つまり、原水禁が分裂の論理を押し通しているからだ。
 Bそればかりでない。総評指導部は社会党の「社会党・公明党政権構想」(八〇年)を支持することを決めた。これは反共を政治原則にし、日米安保条約と自衛隊を事実上容認する右転落である。その後の原水爆禁止運動での総評や原水禁の言動は、この右転落と無関係でない。
 C七七年以来の世界大会の統一的開催はまだ過渡的な措置にすぎない。七七年の合意にそって真の統一(組織統一)に向かって努力すべきで、原水協の役割も真の統一を実現する推進者としてますます重大になっている。

 この突然の論文は、運動関係者の多くに奇異な感じを与えた。というのは、このころ、運動ではますます「統一」が進んでいたからである。
 わが国の原水爆禁止運動組織は、一九六三年に真っ二つに分裂した。「いかなる国の核実験にも反対」「部分的核実験停止条約支持」という二つの問題をめぐって、共産党が強い影響力をもつ原水協と社会党・総評が主体の原水禁に、である。その後、原水協と原水禁は激しく対立・抗争するが、七七年に草野原水協理事長と森滝原水禁代表委員の間で電撃的に合意が成立し、これを契機に、原水協、原水禁、これらのどちらにも属さない市民団体(日本生活協同組合連合会、全国地域婦人団体連絡協議会、日本青年団協議会など)の三者による共闘が進んだ。世界大会を統一して開いたり、国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名活動に共同して取り組んだりしたことから、国民も三者による運動を歓迎し、運動は空前の盛り上がりをみせた。要するに、「組織統一」は実現しなかったものの、「運動の統一」は進んだといってよかった。
 一九六〇年代から七〇年代にかけ、わが国の社会運動は分裂に次ぐ分裂といった様相を呈した。分裂しない団体はない、という有様だった。その原因は、社会党と共産党の間で国際路線をめぐる対立が生じたからだった。政党の対立が社会運動団体に持ち込まれ、分裂の連鎖をもたらしたのだ。
 その中で、原水爆禁止運動だけが「統一」に向かっていた。六三年にいったん分裂した原水爆禁止運動だったが、七七年に統一を回復し、内部に不協和音を抱えながらも、統一はゆるがず、むしろ、共同行動の輪が広がりつつあった。これは「分裂の時代」にあってはまさに奇蹟といってよかった。それには、さまざまな背景が考えられるが、何よりも国民大衆が熱烈に原水爆禁止運動の「統一」を望み、それが運動関係者へのプレッシャーとなっていたからだと思われる。
 それだけに、こうした友好ムードに冷水をあびせるような「赤旗」論文は、運動関係者に困惑と戸惑いを与えた。運動関係者からは「なんで今ごろ、昔のすり切れたテープを持ち出して回さなければならないのか」といった声が聞かれた。論文で展開された、原水禁を「分裂組織」とする批判は、七七年の草野・森滝合意以前の原水協・原水禁対決時代に共産党から繰り返し発せられた主張だったからである。
 果たせるかな、「赤旗」論文は原水禁や総評指導部の反発を招いた。論文直後に開かれた、原水協・原水禁・市民団体でつくる一九八四年世界大会準備委員会の運営委員会では、原水禁の代表が「統一のテーブルについて協議を始めている原水禁を分裂主義と非難するのは何事か」と発言、市民団体の一つ、地婦連の代表も「この時期にこんなことを書かれたことを大変遺憾に思う」と述べた。
 
 その後、事態は意外な展開をみせる。共産党の矛先が一転、原水協内にも向けられる。五月十九日付の「赤旗」は十七日に開かれた同党幹部会の決定を伝えたが、そこには「金子満広書記局長が原水爆禁止運動について報告した」「報告は……七七年の国民的大統一組織実現の『合意』をこれに参加していた総評・『原水禁』が一方的に放棄し、分裂を固定化していること、その状況下で世界大会の主催など限定的な任務で設けられた世界大会準備委員会を、分裂固定化の現状のまま“持続的共闘”の場に変えようとし、原水禁運動の本流を『原水禁』、総評などの許容するわく内に局限するこころみが露骨化していること……などを指摘し、原水協を中心とした原水爆禁止運動の本流の強化を指摘した」「報告にもとづく討議では……原水協の一部にも運動の発展と真の統一の方向と矛盾する誤りや否定的傾向があること、その克服が運動内外でも急務とされているなど、ほりさげた議論がおこなわれた」とあった。
 それまで、運動関係者や報道関係者の間では、原水協執行部は共産党の方針に忠実な人々とみられていた。それだけに、共産党による批判の矛先が原水協執行部の一部に向けられたことは、これら関係者を驚かせた。
 次いで五月二十四日付「赤旗」の、社説にあたる「主張」は「原水協の一部にみられる無原則的な“持続共闘”論への追随などの正しくない日和見主義の見地を、克服して前進しなければなりません」と述べ、さらに、同二十八日付の「赤旗」に掲載された「マスコミ時評」は私をはじめとする朝日新聞記者が書いた運動関連記事への批判だったが、その中で、原水協を代表して世界大会準備委員会に出ていた吉田嘉清・代表理事と、原水協の有力加盟団体である日本平和委員会を代表して世界大会準備委員会に出ていた森賢一・事務局長(準備委員会ではともに運営委員)を名指しで批判した。これにより、共産党が「無原則的な“持続共闘”論への追随などの正しくない日和見主義の見地」に立っているとみなしている「原水協の一部」とは吉田氏らであることが明らかになった。吉田氏は原水協発足以来の主要メンバーで、いわば「原水協の顔」ともみられてきただけに、共産党による批判は運動関係者に衝撃を与えた。

 共産党により、吉田、森両氏の「誤り」とされたのは、持続的共闘組織づくり、世界大会準備委主催による世界大会に向けた平和行進での団体旗自粛、準備委提唱による6・24反トマホーク行動デーにそれぞれ合意、賛成したというものだった。
 持続的共闘組織づくりとは、世界大会準備委内で強まってきた「運動を日常的、継続的に進めるために、事務局をもつ恒常的な共闘組織をつくろう」との声をバックに関係団体間でいったんまとまった合意のことだ。その合意とは、原水協、原水禁、総評、中立労連、平和委員会、護憲連合、日本生協連、地婦連、日青協、婦人有権者同盟、日本山妙法寺、日本原水爆被害者団体協議会の十二団体で原水爆禁止運動連絡委員会(仮称)をつくるというものだった。しかし、原水協の吉田氏と平和委員会の森氏がそれぞれの組織にこれを持ち帰ったところ、内部から異論が出て合意はご破算になった。
 共産党によれば、この恒常的共闘組織構想は、原水禁、総評が、七七年の草野・森滝合意で確認された「組織統一」の課題の完全放棄をねらったもので、断じて容認できないというわけである。
 団体旗自粛問題は、八三年の平和行進に端を発した問題だった。すなわち、大阪で平和行進に加わっていた共産党系団体が、同党系で総評反主流派の統一戦線促進労働組合懇談会(統一労組懇)の旗を掲げたことから、統一労組懇批判を強めつつあった総評主流派系団体が反発し、「認めない」「いや、旗は自由だ」とやりあうトラブルが生じた。
 八四年の平和行進でも「旗は自由」とする原水協、平和委員会などと「準備委参加団体の旗に限る」とする原水禁・総評が対立した。このため、市民団体が「団体旗の自粛」を提案、結局、原水協・平和委、原水禁・総評もこれを受け入れ、平和行進はやっと東京から広島に向け出発した。しかし、その後、原水協に加わる共産党系団体は「自粛は認められない」として、自粛合意の破棄を原水禁・総評や市民団体に通告する事態となった。ここでも、吉田、森両氏が「自粛」を受け入れたことが糾弾された。
 反トマホーク行動デーとは、アメリカの核巡航ミサイル・トマホークの極東への実戦配備に反対するために世界大会準備委が提唱したもので、六月二十四日に各団体がそれぞれ可能な仕方で行動することになった。が、共産党は「もともと総評が計画していたものを準備委に押し付けた」として、これに賛成した吉田、森両氏の態度を問題にした。
 
 つまり、共産党によれば、これら一連の経緯は「総評が、原水禁運動と世界大会準備委を、社会党・総評ブロックの領地のようにみなし、その特定の路線をおしつけ、運動を独占しそのヘゲモニーをにぎろうとするセクト主義」(「赤旗」掲載の「マスコミ時評」)の表れであり、吉田、森両氏は「独断専行があり、そのうえ、原水禁・総評に屈伏、追随したした」というのである。
 共産党による吉田氏らに対する非難は、世界大会準備委と世界大会に大混乱を及ぼすことになる。

(二〇〇七年十月三日記)


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