もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第124回 自主的で自由な雰囲気の編集委員室

編集委員で定年退職者が出ると、編集委員室でささやかな慰労の会を開いた(1993年3月。右から2人目が筆者)




 東京本社社会部次長から編集委員になったのは一九七六年(昭和五十一年)十二月。その後ずっと編集委員を務め、定年退職は一九九五年(平成七年)五月。編集委員としての在任期間は約十八年半だったことになる。
 
 編集委員とは、すでに第102回で紹介したように、専門記者のことである。『朝日新聞社史 昭和戦後編』(一九九四年発行)は次のように説明している。
 「朝日は(昭和)四十一年十一月一日付で機構改革をおこない、……新しく四本社に、肩書を『編集委員』とする専門記者制度を発足させた。『編集委員』という肩書は、……三十五年三月、整理部の機構改革で登場、同部デスクらに使用されていたが、この新制度による編集委員は、すぐれた専門のライターを育成し、部長や局長などの管理職にならなくても、筆一本の力でそれと同等の処遇をうけられる道をひらいたものだった。これによって記事や紙面制作に特色を出し、メディアの多様化にも対応しようというねらいで、次長クラス以上の経験と実績あるものから選ぶことにした」
 編集委員は、自分の書いた記事に署名することが許された。いまでは、署名記事は珍しくないが、当時は極めてまれなことだった。
 新聞界でも、朝日が他社にさきがけて創設した制度だった。その後、他社にも「編集委員」が登場した。

 現役中、社外の人と話していると、「その編集委員とやらは、いったい何人くらいいるんだね」とよく聞かれたものだ。
 私が編集委員になった一九七六年当時、全社で何人いたのか記憶にない。が、それから間もない一九七八年五月現在では、全社で六十六人を数えた(「朝日新聞社社員写真帳」による)。内訳は東京本社三十九人、大阪本社十六人、西部本社六人、名古屋本社五人だ。当時、社員は約八五〇〇人、うち編集部門はざっと三〇〇〇人といわれていた。その中の六十六人である。
 その後、一九八三年には六十人に減っている。これは、社内で「編集委員が多すぎる」という声が出て、減員したためと思われる。しかし、その後はまた増え続け、八八年には七十七人、私が退職した九五年には百三人に達している。
 東京本社だけでみれば、七八年三十九人、八三年四十二人、八八年五十九人、九五年六十一人となっている。

 十八年半編集委員に在籍した私の経験からいえば、編集委員は社内の機構改革のたびにその対象とされた。編集幹部にとっては、問題のある部門、管理しにくい部門であったのだろう。編集委員側からすればなんとも承服しがたい「編集委員制度いじり」だったが、その都度、会社の方針に従うほかなかった。なぜなら、編集委員が仕事をする上での拠点である「編集委員室」はあっても、それは正式に認められた社内機構の一つでなく、何の権限ももたない「編集委員のたまり場」に過ぎなかったからである。
 めまぐるしく変わった会社の編集委員制度に対する方針は、編集委員の身分的扱いによく表れていた。私が編集委員になった時は、編集委員は編集局長直属であった。つまり、編集局長の指揮、命令に従って働くポストだった(編集局次長の一人が編集委員担当を務めていた)。しかし、八〇年代に入ると、編集局の各部、すなわち政治部とか、経済部とか、社会部、写真部、学芸部などの所属となった。つまり、各部部長の指揮下に入れられた。私は社会部の編集委員となった。
 私が退職した九五年には、編集委員に二通りあった。編集局長直属の編集委員と部付きの編集委員である。私たちは、編集局長直属の編集委員を「大編集委員」と呼んだ。大部分は部付きだった。

 「編集委員のたまり場」である編集委員室は、旧社屋にも新社屋にもあった。有楽町に東京本社があった時は、その四階の一角にあった。一九八〇年九月に東京本社が築地の新社屋(地下四階、地上十六階)に移ると、その六階に編集委員室がつくられた。同じ階に論説委員室、調査研究室があった。
 編集委員室からは、眼下に築地の魚市場の全景が見えた。遠く、隅田川や東京湾が望まれた。室内の机(デスク)は二十数個。窓側に向かって四列に並んでいた。
 これだけでは、とても東京本社の編集委員全員を収容できない。だから、自分の所属する部で机を確保し、そこを拠点に仕事をする編集委員もいた。また、編集委員室に入るのを望まない編集委員もいて、その人たちも所属の部で仕事をした。

 編集委員室は、すでに述べたように会社の正式な機構の一つではなく、特定の社員のたまり場だったから、室長という名の管理職は置かれていなかった。だから、編集委員自らが自主的に管理していた。朝は一番早く来た者が編集庶務部へ行って鍵を借り、これで編集委員室を開け、夜は、一番遅くまで残っていた者が部屋に鍵をかけて退出した。いわば、編集委員による自主管理といってよかった。専属の事務の女性も配置されていた。
 
 週一回、水曜日の夕刻に(一九九一年六月からは金曜日夕刻に変わった)ここで編集委員会議が開かれたが、これも編集委員による自主的な運営であった。
 会議には、編集委員担当の編集局次長が出席し、会社の決定や編集方針を伝達したり、編集委員からの希望、意見を聴いた。その後は、編集委員のページの執筆分担を話し合いで決めた。 
 私が編集委員になったころは、朝刊に週一回、編集委員専用ページがあった。そこに『月曜ルポ』という長文のルポルタージュの欄があり、希望者が多かった。希望者から出されたテーマをみんなで吟味し、掲載するかどうかを決めたものだ。その後、専用ページは夕刊に移され、『わたしの言い分』とか『言いたい・聞きたい』といった企画が続いた。これらは長文のインタビュー記事で、軌道に乗るまでは一人が執筆したが、その後は交代で担当するようになり、その筆者を話し合いで決めた。
 『月曜ルポ』のころは、編集局次長自らがデスクを務めたが、『わたしの言い分』『言いたい・聞きたい』のころになると、デスクは企画報道室の副室長が務めた。
 会議の司会を務めたのは、世話人あるいは幹事と呼ばれていた編集委員で、これは編集委員の回り持ちだった。

 とにかく、私の在社中、編集委員室には自主管理に基づく自由な雰囲気があった。こうした部署が存在しえた要因は何なのか、私には分からない。社外の知人は「それは、記者の自由な精神を重んじる社風が『朝日』にあったからではないか」と言った。が、私は他の報道機関や一般企業に勤務したことが全くないので、その人の見方が当たっているのかどうか、判定できない。
 もっとも、編集委員がいつでも自由になんでも書けたというわけでは決してない。むしろ、「書く場」を求めて苦闘していた編集委員もいた。編集委員が増えても編集委員専用ページは週一回のためなかなか順番が回ってこなかったし、他の面(ページ)に書きたいと願っても、そこは、編集局の各部がそれぞれ絶対的な権限をもっている上に、いつも各部の記者が書いた原稿であふれていて、編集委員として書くチャンスがなかなかやってこなかったからだ。
 ともあれ、こうした環境の部署で仕事ができたことは新聞記者として幸運だったと、私は思っている。私の隣の机の主は社会部出身の本多勝一氏だったし、他には、同じく社会部出身の疋田桂一郎氏(「天声人語」の筆者、故人)、辰濃和男氏(「天声人語」の筆者)、高木正幸氏(新左翼問題・同和問題の専門家、故人)、伊藤正孝氏(アフリカ問題の専門家、故人)、政治部出身の石川真澄氏(故人)、竹内謙氏(後に鎌倉市長)、学芸部出身の西島建男氏、科学部出身の石弘之氏(後に東京大学教授)、田辺功氏らが在室していた。まさに、そうそうたる顔ぶれである。私は、この人たちから多くのことを学んだ。

(二〇〇七年九月二十四日記)


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