もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第117回 衝撃の徳興里壁画古墳――北朝鮮再訪B

徳興里古墳は小高い丘の上にあった(1978年11月、平壌市の西にあるテアン市で中井征勝写真部員写す)

徳興里古墳の壁画。牛車に従う2人の婦人はスカートをはいており、高松塚古墳の婦人像に似ている(1978年11月、中井征勝写真部員写す)




 平壌を離れる日が近づいてきた。そんなある日の午前中、平壌郊外にあるトラクター工場を見学した。見学を終えた私たちを乗せた乗用車がトラクター工場の門を出た時だ。同乗していた朝鮮対外文化連絡協会(対文協)のビョン参事が言った。「平壌に帰る途中、高句麗古墳をお見せしましょう」。私にとっては、高句麗古墳を見るのは初めてだった。胸が高鳴るのを覚えた。

 車は平坦な田園地帯を進んだ。田んぼにはすでに稲はない。刈り取られた後の稲株が、柔らかい秋の日差しを浴びている。一方、畑はまだ青々としている。見事に実った白菜だ。それの取り入れているのだろう。遠くに人影が点在する。
 やがて、低い丘が見えてきた。その丘の一部が、おわんを伏せたようにふっくらと盛り上がっている。丸い、小さな山という感じ。山の全面に芝生が植えられた直後らしく、茶色の山肌に緑の線が横状に走る。車は山すそに止まった。学者風の年老いた男性が私たちを迎えた。説明員であった。
 
 説明員が口を開いた。「これは、トクフンリ(徳興里)壁画古墳です」。所在地は平安南道テアン(大安)市トクフンリ。平壌の西方、車で三十分のところという。
 説明員によれば、一九七六年十二月に発見され、七七年一月から二月にかけて発掘された。ビョン参事が続けた。「外国にはまだ発表していないし、国内でもまだ一般公開していません。見学には、政務院(内閣)の特別の許可が必要です。実は昨夜、あなたがたに見せることについて許可が出たのです。日本人でここを訪れたのは、あなたがたより少し前に訪朝した雑誌『世界』編集長一行に次いで、あなたがたが二番目です」
 もちろん、私たちが対文協に提出していた取材要請の中に高句麗古墳の見学など入っていなかった。だから、それを見学できることになったのには、ビョン参事の特別の計らいがあったのではないかと私は感じた。
 私たちが出した取材要請のあらかたはすでに実現していた。が、それまでに一つだけ実現していない項目があった。「金日成主席へのインタビュー」だ。すでに帰国も間近。インタビューはもはや百%ないことは明白だった。私たちの要求を実現させることができなかったビョン参事としては、申し訳ないという思いから、それに代わるものとして、徳興里古墳の見学許可を上層部に申請し、許可をとりつけたのだろう。ビョン参事の口ぶりから、私にはそう思われたのである。

 山のすそ野の一角にコンクリート製の入り口があった。がんじょうな扉を開けて中に入ると、石でできた、頭をこごめないと通れないような通路が数メートル続いていて、それを抜けると、石でできた部屋があった。さらに、その奥にもう一つの部屋があり、手前の部屋と通路で結ばれていた。手前の部屋は前室、奥の部屋は玄室と呼ぶという。大きさは、前室が東西二・九七メートル、南北二・〇二メートル、高さ二・八四メートル・玄室は東西三・二七七メートル、南北三・二八メートル、高さ二・八九五メートル。玄室の方が大きい。この二つの部屋をつなぐ通路の高さは一・三七メートル。
 二つの部屋には、それぞれ四〇ワット程度の裸電球がぶらさがっていた。明るい光がさんさんと降り注ぐ外界から入ってきた者には、いかにも暗い。
 が、目が暗さになれてくるにつれて、私は思わず声をあげてしまった。二つの部屋の、天井といい、壁といい、あらゆるところに所狭しと彩色の壁画がびつしりと描かれていたからである。黄を主調に、薄緑、茶、黒、赤、青などの絵の具を使って描かれた、きめ細かな壁画が、裸電球の乏しい光に照らされて、くっきりと浮かび上がってきたのだ。

 説明員が言った。「写真を撮ってもけっこうです。ただし三十分以内なら」。ところが、同行の中井写真部員はいかにも残念そうな表情だ。不審に思って声をかけると、「最悪の条件」とのこと。朝、平壌のホテルを出る際、カメラを固定するための三脚をホテルの部屋に置いてきてしまったという。「トラクター工場の見学ということだったので、必要ないと思って……」。三脚がなければ、カメラを手で構えて撮影しなくてはならない。また、同じ理由でフラッシュも持参してこなかったという。四〇ワットの光源で果たして撮れるだろうか。中井部員は「時間をかければなんとか」という。 
 それに、悪いことは重なるもので、残りカラーフィルムが一本しかないという。「トラクター工場の見学で午前中の取材は終わりと思ったから、用意してきたカラーフィルムをあらかた使ってしまい、あと一本しかないんだ」。いわば、突然、目の前に現れた絶好の被写体を前にして、最悪の条件で臨まなくてはならなくなったのだった。が、そこは写真のプロ、四〇ワットの裸電球の光を頼りに壁画を次々とカメラに収めていった。

 「まず、これを見てください」と説明員が指で示したのは前室の壁に描かれた男性の座像と、隣の壁面に描かれた十三人の男性の立像だった。「座像の男性はこの墓の被葬者で、十三人は彼にあいさつにきた家来とみていいでしょう」と説明員。それに見入っていると、説明員はさらに続けた。「この被葬者の名前や、墓がつくられた年代が分かりました。その手がかりとなったのがこれです」。説明員はそう言って、座像の斜め上の天井を指さした。そこには、百五十四の漢字が墨で書かれていた。墓碑銘だ。
 これによって、被葬者の名は鎭、信都県で生まれ、建威将軍、国小大兄、左将軍、龍驤将軍、遼東太守、使持節、東夷校尉、幽州刺吏などを歴任し、七十七歳で死亡したこと、永楽十八年十二月二十五日(西暦四〇九年一月二十六日)にここに埋葬されたことが分かったという。
 説明員の説明は続く。
 「被葬者の氏名、出身地、官職、没年といった来歴が文字で書かれた高句麗古墳は非常に珍しいものです」
 「西暦四〇九年の築造といえば、高句麗十九代の広開土王(三九三〜四一三年)の治世の築造です。高句麗古墳には二、三世紀のころからのものから七世紀のころまでのものがあり、したがってトクフンリ古墳は高句麗中期のものといえるでしょう」
 「幽州刺吏とは幽州という州の長官ですね。いまでいう道の長官ぐらいの地位でしょう。かなりの高官とみていいですね」
 さらに、説明員は誇らしげにこう言った。
 「墓の中に書かれた文字によって、一時期の高句麗の支配地域が従来考えられていたよりはるかに広く、遼河流域から万里長城を越え、いまの中国河北省北部を経て山西省北部に至る広大な地域に広がっていたことが判明したんです」
 
 二つの部屋の壁面には、さまざまの図柄の絵があった。ヨロイをつけた馬にまたがった武者。馬に乗った射手が弓矢でトラ、イノシシ、シカ、キジなどを追いつめる狩猟図。矢に射られて首から血がしたたり落ちているトラもいる。牛車を先頭に武官、文官をしたがえて威風堂々と行進する行列。天女像。天の川をはさんで牽牛と織女が見つめ合う七夕の図。伝説、あるいは信仰上の動物であろうか、空を飛ぶ羽のある魚や、頭二つに体一つの鳥もみえる。三足のカラスを中に描いた円があるかと思うと、ヒキガエルを中に描いた円もある。なんとも幻想的だが、説明員によると、前者は太陽、後者は月を表現したものだそうだ。
 流鏑馬(やぶさめ)の絵もあった。四人の出場者と二人の審判員、それに記録係が一人。五つの的のうち二つはすでに真っ二つになって地下に落下している。

 とにかく、面白い。絵の内容はいずれも単純、素朴で、ユーモラスだが、その筆致は精緻を極める。見ていてあきない。時間を忘れてしまうほとだ。五世紀当時の朝鮮の宮廷の高官の生活の一端がよく分かったが、私にとっては、千五百余年も前に朝鮮の人びとがすでにこれだけの高度な表現力をもっていたとは大きな驚きであった。
 驚きはまだ続く。
 

(二〇〇七年七月十一日記)


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