もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
平壌市のマンギョンデ(万景台)にある金日成主席の生家(1978年11月、中井征勝写真部員写す)
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一九七八年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を十年ぶりに再訪して印象に残ったことの二つ目、それは金日成主席に対する個人崇拝がいっそう強まっていたことである。見たまま、聞いたままを以下に記す。
その一。私たちが会った人たちは、みな左胸に金日成バッジをつけていた。主席の顔写真がはめこまれた円形のバッジだ。おそらく、子どもを除く国民の全員がつけているのでは、と思われた。十年前にはこんなことはなかった。
それにしても、なぜこうしたバッジをつけるのか。滞在中、通訳をしてくれた人にそれを尋ねたことがある。そしたら「偉大な主席に対する敬愛と忠誠を表すためです。それも、心底からの敬愛と忠誠という意味を込めて、心、つまり心臓の上にあたりにつけているのです」という返事だった。
自ら買うんだろうか。それとも、国から支給されるのだろうか。その点を尋ねると、通訳氏の一人は「街で売っていますよ」との返事。が、別の通訳氏は「それぞれの勤務先で支給されます」と言った。どうなっているのか、どうもすっきりしなかった。
その二。私たちが会った人たちは、みな、主席を決して呼び捨てにしなかった。必ず「偉大な」あるいは「敬愛する」という言葉をその上につけた。「偉大な主席」「敬愛する主席」といったように。十年前には、すべての人がこういう表現をするということはなかった。日本記者団を案内してくれた通訳氏は「金日成同志」あるいは「金日成首相」と話したように記憶する。
その三。主席の肖像写真、肖像画、像、活躍を描いた絵も十年前に比べて増えたように感じた。
とにかく、いたるところに「主席」がいた。託児所の各部屋、幼稚園、学校の各教室、課外活動施設の学生少年宮殿の各部屋には主席の肖像写真が掲げられていた。公共施設、例えば美術館、博物館、工業・農業展覧館、戦勝記念館などは、正面入り口から入ると、突き当たりのところに必ず主席の立像、あるいは主席の活躍を描いた絵があった。
地下鉄の車両内にも主席の肖像写真が掲げられていたし、各駅構内の壁には主席の活躍を描いた絵があった。工場や協同農場を訪れると、管理部門がある建物に主席の肖像画が掲げられていた。朝鮮労働党機関紙「労働新聞」の本社では、正面玄関を入るとすぐ、主席の白い座像があり、その前には白いカーテンのような布が垂れていた。
ホテルにも肖像写真や絵があった。私たちが平壌滞在中に泊まったポトンガン・ホテル
は、正面から入るとロビーがあり、そこの壁に大きな絵が掲げられていた。それは、この国の革命発祥の地とされる白頭山の頂上に立つ主席を描いたものだった。また、ケソン(開城)市で泊まったホテルの各室には主席の肖像写真が掲げられていたし、景勝地・妙香山のホテルでも同様だった。
なかでもとりわけ印象に残ったのは、平壌の中央、市街を見下ろす高台にある革命博物館の前に立つ主席の銅像である。高さ二十メートル。右手を高くあげた巨大な像で、夜になると、照明が全身にあてられ、平壌のかなり遠くからもそれを望むことができた。これは、十年前にはなかったものだ。
その四。主席の生家が保存されているマンギョンデ(万景台)も、十年前よりさらに整備され、大規模になっていた。それは平壌の都心から南西の方角にあり、都心から車で三十分のところにあった。そこに主席が生まれ、育った家が保存されているが、その家の近くに大きな池ができていた。池の中には噴水があった。池も噴水も十年前にはなかったように記憶している。
また、生家の後方の小高いところに記念館(案内の人は革命事績館と呼んだ)ができていた。コンクリート建ての白い建物。説明してくれた人の話によれば、一九七二年、主席の生誕六十年を記念して建設されたとのことだった。記念館には、主席の曾祖父キム・ウンウに始まる金日成家四代の歴史が絵や写真、図などによって展示されていた。
生家の近くにはまた、樹木の植わった高台があった。そこには、主席が少年時代に腰かけた石や、遊んだ岩、相撲をとったという砂場が保存されていた。
マンギョンデを見学中、参観にきていた人々に出会った。いずれも実に行儀がよく、隊列を組んで移動する。「参観者は年に百六十万人にのぼります。団体、家族連れ、個人とさまざまです。もちろん全国からですが、地方からは職場ごとにバスや列車でやってきます」と、記念館の説明員。
マンギョンデの風景を描いた絵もいたるところで見かけた。これは、十年前には見られなかった光景だ。
「主席の万年長寿を祈念します」という言葉も目についた。他のスローガンとともに街頭にも掲げられていた。私たちの受け入れ窓口であった朝鮮対外文化連絡協会の人たちは、私たちを歓迎する宴席で、「主席の万年長寿を祈念します」といって乾杯した。
その五。主席の業績を讃える顕彰碑を各地で見かけたのも、十年前とは違った経験だった。平壌の西北にある、この国最大規模のトラクター工場を訪ねた時のことだ。正門から構内に入ると、石造りの大きな碑があった。何だろうと、出迎えてくれた副支配人に尋ねると、彼は言った。「敬愛する主席のこの工場に対する配慮を永久に残すためにつくられた記念碑で、主席の誕生六十五周年の年、一九七七年に建立されました」
平壌の北、平安南道にある延豊湖のほとりにも、主席の業績を讃える顕彰碑があった。この湖は大同江と清川江にはさまれた地域につくられた人工湖。農業用水と工業用水のために造られた。湖の建設は一九四八年に始まり、朝鮮戦争で中断を余儀なくされたが、戦後再び建設作業にかかり、一九五六年に完成したという。
「ここに人工湖をつくれと場所を選定してくださったのは偉大な主席であり、先頭に立って工事を指揮したのも偉大な主席でした」と、説明員。碑の文面は、こうした主席の業績を記したものという。
その六。顕彰碑のことを書いたついでに、このことも紹介しておこう。それは、顕彰碑があるなしにかかわらず、どこへ行っても、ほとんどすべてのことが主席の指導と結びつけて語られたことである。例えば、こうだ。
平壌市内の託児所で。「偉大な主席が一九七二年一月四日にここを訪れました。そして全部の部屋を回り、食堂で食事をし、子どもたちの食事のメニューについても教えてくださいました」(副所長)
同市内の人民学校で。「この学校は偉大な主席が三回きてくださった光栄ある学校です。そのうえ、これまで数次にわたって綱領的教えをくださいました 」「わが校は卓球で全国一になりました。これは、スポーツを奨励せよという主席の教えに従って努力した結果です。偉大な主席の賢明なご指導のたまものと思っています」
その七。最後に国際親善展覧館のことを紹介しよう。それは、平壌から北へ車で約二時間の景勝地、妙香山の渓谷にあった。清らかな谷川の流れと豊かな樹木。ここは、紅葉が美しいことで知られるという。渓谷をさかのぼると、突然、目の前に朝鮮風の巨大な白いコンクリート建て(六階建て)の建物が現れた。これが、国際親善展覧館だった。七八年八月の開館というから、私たちは開館間もない時期に訪れたことになる。
北朝鮮側の説明によると、これは、建国後三十年の間に金日成主席に諸外国の政府、政党、民間団体、個人から寄せられた贈り物の展示館。贈り物は百二十二カ国から二万五千点にのぼり、それらがここに収められているという。うち数千点を四十一の部屋に展示してあるとのことで、一つずつ見て歩くと六日間かかるとのことだった。
さまざまな贈り物が、贈り主の氏名と日付を書いた紙片とともにガラスケースの中に陳列されていた。まさに、世界の宝物を見る思い。日本人からの贈り物もあった。見学の後、副館長が私たちに強調した。「このような展覧館ができたのも、偉大な主席の指導があったからであり、またわが国に偉大な主席がいたからこそ、世界中の人民が贈り物を送ってきたのです。私たちは、敬愛する主席の対外的権威がいかに高く、世界の人民がいかに主席を敬慕しているかを誇り高く語ることができます」
とにかく、金日成主席の絶対的権力と権威が国のすみずみにまで、国のあらゆる分野に浸透しきっている感じだった。まさに、この国は「金日成」一色に塗りつぶされたという印象だった。神格化も極まれり、という思いを禁じ得なかった。
萩原遼著『ソウルと平壌』(一九八九年、大月書店刊)によれば、金日成主席が朝鮮労働党内で主導権を確立したのは一九六七年五月に開かれた同党中央委員会第四期第十五回総会でだという。当時、金日成派は党内では少数派だったが、軍の力を背景にこの総会で多数派を追放、粛清し、党の主導権を握ったのだという。萩原氏はこれを「一九六七年の金日成のクーデター」と呼んでいる。
これを読んで、私は、十年の間にこの国で金主席に対する個人崇拝が飛躍的に増幅した背景を納得した。私が最初にこの国を訪れたのは一九六八年九月だから、萩原氏のいう“クーデター”の直後だったことになる。したがって、そのころは個人崇拝もそれほとでなかったということだろう。が、“クーデター”を境に主席が次第に独裁的、絶対的な権力を確立していったのにつれて、個人崇拝もまたエスカレートしていったということだろうか。
すでに紹介したように、金主席に対する個人崇拝はその規模がまことに甚大かつ徹底的で、膨大な財政的負担をともなうものだった。国民大衆の自発的イニシアチブでこれだけの顕彰事業が行われているとはとても思えなかった。やはり、党や政府の主導により初めて可能なのだと思わせられた。
いずれにしても、個人崇拝は民主主義とは相容れない。金日成本人は己への個人崇拝をどう考えていたのだろうか。そして、国民大衆の側は心の底ではどう考えていたのだろうか。十五日間という短い滞在と表面的な観察からは、どちらの点についても確固たる回答はえられなかった。
(二〇〇七年七月三日記)
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