もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
第114回 ノーモア・ユーロシマ――西欧の“熱い秋” |
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50万人が参加した西独の反核集会(1983年10月22日、西独のボンで。筆者撮影)
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広場を埋めた群衆の頭上を巨大な風船がバウンドしながら転がる。と、群衆から無数の手が伸び、風船をつかまえようとする。その度に風船はまたバウンドを繰り返しながら群衆の頭上を行ったり来たり……。風船には、世界の地図が描かれている。だから、それは、まるで地球が世界中の人々によって手を差し伸べられているような光景に見えた。それはまた、会場を埋めた人々が世界各国の人々との連帯を求めて両手を振り上げているかのようにも思えた。
一九八三年(昭和五十八年)十月二十二日、統一前の西ドイツの首都ボン。この日、ボン大学わきの広場で「平和のための国民集会」が開かれた。葉が黄色く色づいた樹木に囲まれた広場を埋めた集会参加者はざっと五十万人。いったいどこからこんなにも多くの人々がやってきたのだろうと思わせる人、人、人の波。広場に設けられた舞台では、「反核の闘士」といわれていた著名な作家、ギュンター・グラスらが次々と熱弁をふるった。
目前のこうした光景に、私は圧倒された。「ヨーロッパでも広範な人たちが核戦争に反対して立ち上がったのだ」。そうした思いが、私の脳裏を駆けめぐった。
日本で第二回国連軍縮特別総会(SSDU)に向けた反核運動が燃え盛りつつあった時期、西ヨーロッパでも大規模な反核運動が高揚しつつあった。
そのきっかけとなったのは、一九七九年十二月に開かれた北大西洋条約機構(NATO)理事会の「二重決定」だった。つまり、米国の新型中距離核ミサイル(パーシングU、巡航ミサイル)のヨーロッパ配備を進める一方で、米国とソ連の間で中距離核戦力(IMF)削減交渉を進める、という決定だった。
これは、七〇年代後半からソ連がヨーロッパ向けに中距離核ミサイルSS20の配備を開始したことへの対抗措置だった。具体的には、八三年後半以降にパーシングU一〇八基を西ドイツに、巡航ミサイル四六二基をイギリス、イタリア、ベルギー、オランダの五カ国に配備するというものだった。
仰天したのは西ヨーロッパの市民たちである。「これでは、ヨーロッパが米ソによる核戦争の舞台になってしまうではないか」という恐怖が、またたく間に西ヨーロッパ各国の市民の間に広がった。「ヨーロッパをヒロシマにしてはならない」という危機感から、「ノーモア・ユーロシマ」(ヨーロッパのヒロシマ化を許すな)というスローガンが生まれた。「ユーロシマ」は「ヨーロッパ」と「ヒロシマ」をだぶらせた造語だった。
八一年十月十日には、西ドイツのボンで米国の新型中距離核ミサイルの配備に反対する集会が開かれ、約三〇万人が集まった。これ以後、西ヨーロッパ各国の首都や大都市で同様な集会が相次いで開かれた。
そして、配備開始の八三年秋には、配備反対の集会がピークに達した。とくに十月二十二日から三十日にかけボン、ロンドン、ローマ、パリ、ストックホルム、ウィーン、ブリッセル、ハーグなどで大規模な反核集会が連続して開かれ、報道によれば、参加者は総計で二〇〇万人に達した。このため、これら一連の反核集会を伝えるジャーナリズムはこれを「西欧の“熱い秋”」と呼んだ。
朝日新聞東京本社社会部は、こうした西欧の反核運動を伝えるため堀江義人記者を現地に派遣したが、私もこの目でそれを見たかった。そこで、自費で現地に飛び、西ドイツとイギリスで取材にあたった。十月二十二日にはボン大学わきの広場で「平和のための国民集会」が開かれると聞いて、そこへ出かけて行ったというわけだ。
ボン滞在中、国会議事堂内で、国会議員で「緑の党」議長のペトラ・ケリーさんに会った。彼女は当時、西独における反核運動の象徴的存在で、一九八一年、原水爆禁止世界大会に参加のため来日し、日本でも注目を集めた(後年、彼女は西独の元陸軍少将のゲルト・バスティアン氏とともに死んでいるのが発見され、世界に衝撃を与えた。無理心中なのか合意の心中なのか不明と報道されたが、ケリーさん来日の折りはバスティアン元将軍もいっしょだった)。
その後、西ドイツ北部のハンブルクを訪れた。人口百七十万のこの街の中心街を歩いていたら、高校生ばかりのデモ行進に出合った。口々に「平和」「連帯」と叫ぶ。半数は女の子。彼らはやがて路上に寝ころんだ。ダイ・インだった。もちろん、米国の新型核ミサイルの配備に反対するデモンストレーションであった。
イギリスでは、グリーナムコモン米軍基地の周囲に女性ばかりによる平和キャンプが設けられていた。米国の新型核ミサイルがこの基地に配備されるというので、それを阻止するためのキャンプだった。
グリーナムコモン米軍基地はロンドンから西へ約八〇キロ。牧場や畑、原野が続く田園地帯の中にあった。金網で囲まれた基地の周りは約一四キロ。平和キャンプは金網のすぐ外の四カ所に設けられていた。いずれもビニールやシートで作られた、いたって粗末なテント。女性たち四、五十人がここに寝泊まりしながら基地を監視し、時には基地内に進入するなどの非暴力直接行動を続けていた。地元の自治体によって何度も撤去されたが、そのたびに女性たちは再建した。
自然条件も厳しい。訪れたのは十月半ばだったが、吹きつける風は肌を刺すように冷たかった。キャンプでは、たき火がたかれていた。「真冬の寒さは格別です。氷点下になりますから」と、キャンプにいた女性は言った。
私がここを訪れるまでの約二年間に延べ約四百人が逮捕されたという。キャンプには、イギリス人女性ばかりでなく、米国、西ドイツ、フランス、デンマーク、スウェーデン、オーストラリア、ニュージーランド、日本からも参加者があるとのことだった。
地元民の間では「汚い」「レズやパンク族もいる」とはなはだ評判が悪い。夜、テントに石が投げられこともある。が、キャンプに参加しているイギリス人のレベッカ・ジョンソンさん(二十九歳)は意気盛んだった。「私たちには、人間を絶滅させる核戦争の突発をストップする義務があると思うの。私たち普通の人間には、自分のからだしかない。だから、このからだを使って核兵器に立ち向かうしかない。それが、私たちの非暴力直接行動なんです。私たちへの支援は世界各地に広がっています」
実は、彼女に会うのは二度目だった。彼女は、この年の夏に日本で開かれた原水爆禁止世界大会に参加したからだ。世界大会では、国際会議の演壇で「平和のための女たち 世界の人々よ ともに立ち上がって『ノー』と言ってほしい」と、米国の新型核ミサイルのイギリス配備に反対する歌を歌い、満場の拍手を浴びた。
その後も彼女の反核運動は続き、後年、英国労働党の国会議員になった。そして、核問題の専門家としてたびたび来日している。グリーナムコモンの平和キャンプが生んだスターと言っていいだろう。
イギリスではまた、西欧反核運動の理論的リーダーの一人、メアリー・カルドーさんにインタビューした。サセックス大学科学政策研究所主任研究員で当時三十七歳。「西欧各国でなぜ反核運動が広がっているのか」との問いに、彼女がこう答えたのが印象に残っている。
「原因の一つは、政治家への不信が高まっていることだと思います。一九五〇、六〇年代にも核への恐怖は存在しました。が、平和運動が今ほど盛り上がらなかったのは、私たちの間に、政治家がちゃんとやってくれる、との期待があったからです。しかし、西欧では、社民党、労働党などの野党は冷たい戦争になんの手も打たず、市民への約束を果たさなかった。そこで、今や、平和運動がかつての社会主義政党にとって代わろうとしているのです」
こうした反核運動の盛り上がりにもかかわらず、この年十一月半ばには巡航ミサイルの配備がイギリスで始まり、その他の国々にも新型核ミサイルが次々と配備された。運動は敗北した。
しかし、その後、西ヨーロッパに配備された新型核ミサイル、その配備を引き起こしたソ連の欧州向け中距離核ミサイルSS20をも含むすべてのINFを廃棄する条約が、レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の間で調印される。一九八七年十二月のことである。米ソ両首脳がIMF全廃に踏み切った背景にはさまざま理由があったに違いないが、西ヨーロッパの民衆による大規模なIMF配備反対運動もその一つであったろうと私は思う。なぜなら、いかなる政治指導者も民衆の要求を全く無視しては政治を行えないからだ。
全廃条約によってIMFが撤去された後も、西ヨーロッパに芽生えた反核運動はその後、盛衰を繰り返しながらも、世界の核軍縮問題の上で重要な役割を果たす。「反核運動なんて世界の核状況に全く影響を与えることはない」と冷笑する向きも少なくないが、これまでの世界の反核運動と核軍縮の歴史をたどると、そうした見方が皮相的、一面的であることに気づかされるはずだ。運動を見続けてきた私は確信する。「歴史をつくるのは民衆だ」と。
(二〇〇七年六月五日記)
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