もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第113回 核兵器完全禁止へ――内外で空前の盛り上がり

ニューヨークの五番街を埋めた反核100万人デモの参加者(1982年6月12日)=日本労働組合総評議会発行の「反核写真集 広島・東京・ニューヨーク」から




 一九七七年(昭和五十二年)五月十九日に、原水協(共産党系)の草野信男理事長と原水禁(社会党・総評系)の森滝市郎代表委員の間で調印された、運動の統一に関する合意書(草野・森滝合意)は、その後の内外の原水爆禁止運動に決定的な影響をもたらした。
 
 まず、この統一世界大会と同時並行的に開催された「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」(被爆問題シンポジウム)は、運動の統一がもたらした成果の一つといっていいだろう。
 このシンポジウムは広島、長崎に投下された原爆による被害と被爆者の現状を科学的に明らかにするためのものだった。七四年と七五年に国連本部を訪れた原水協の代表団が、国連に原爆の後遺についての調査研究に国際社会が乗り出すよう要請、これを受けて国連の傘下にあるNGO軍縮特別委員会が「原爆被害者に関する特別決議」をし、それに基づいて日本で開かれることになったものだ。
 原水協が“言い出しっぺ”だったために、他の団体はこの催しに当初はそっぽを向いていたが、「草野・森滝合意」により、このシンポに対しても歩み寄りのムードが生まれ、シンポを運営する日本準備委員会には、学者・文化人のほか、原水協、原水禁、市民団体の関係者が加わった。特筆すべきは、原水協や原水禁と対立するもう一つの運動団体の核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、自民・民社党系)と、総評と対立する全日本労働総同盟(同盟)の関係者が加わったことだった。いわば、文字通りの原水爆禁止運動の大同団結が実現したといってよかった。
 結局、七月二十一日から東京、広島、長崎を結んで国際調査が行われ、それに基づくNGOと研究機関のシンポジウムが広島で開かれた。広島と長崎で、一般市民を対象とするラリーも行われた。
 シンポで採択された宣言「生か忘却か」は「私たちはみんなヒロシマ・ナガサキの生きのこりです。原爆には生き残りましたが、いまなお、ヒロシマ・ナガサキを壊滅した原爆よりずっと強力な数百万発の原水爆、また予想される中性子爆弾、巡航ミサイル、またより精密な戦略兵器の配備が、私たちをおびやかしています」として、「全世界のヒバクシャよ 団結せよ」と訴えていた。被爆者が「ヒバクシャ」と片仮名で表記されたのはこの時が初めてで、以後、「ヒバクシャ」は世界語となった。
 運動の統一が生んだ第二の成果は、ニューヨークの国連本部で開かれた第一回国連軍縮特別総会(SSDT)に統一した代表団を送ることができたことだろう。
 原水協、原水禁、市民団体は、統一実行委員会での申し合わせに基づき、七八年前半に予定されていたSSDに向けて全国で「国連に核兵器完全禁止を要請する署名」運動をはじめ、併せて統一代表団の結成を進めた。
 結局、署名は一八六九万四二二五人に達した。七八年五月には、統一代表団「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団」が結成された。総勢五〇二人。協、禁、市民団体の代表のほか、核禁会議、同盟の代表も加わっていた。
 SSDはこの年五月二十二日から六月三十日まで国連本部で開かれた。この間、統一代表団は署名簿を携えてニューヨークへ向かい、署名をロルフ・ビョルナーシュテット国連軍縮センター所長に手渡すとともにSSDを傍聴した。
 SSDがNGOの代表にも発言の場を設けたため、日本からは統一代表団事務局長の田中里子・全地婦連事務局長が黄色いワンピース姿で登壇した。田中さんは「私たち日本のNGOは、国連が核軍備撤廃への着実な歩みを開始することを強く要請します」と述べ、演説の最後を「ちちをかえせ ははをかえせ」ではじまる広島の被爆詩人、峠三吉の詩で結んだ。

 「草野・森滝合意」がもたらした運動統一の潮流は、その後も途絶することはなかった。いや、むしろ、内部対立を抱えながらも運動統一の潮流はますます太くなっていった。SSDT直後の七八年八月、長崎でも統一世界大会が開催されたことも、そのことを象徴する出来事といってよかった。長崎での統一大会は分裂以来十五年ぶりのことであった。

 その後、運動統一の流れは八一年から八二年にかけて最高潮に達する。運動に参加している人たちにスクラムを組ませたのは、またしてもSSDであった。
 国連総会の決定により、八二年前半に第二回国連軍縮特別総会(SSDU)が開かれることになった。このため、原水協、原水禁、市民団体は八一年十一月に「第二回国連軍縮総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」を結成し、国連に向けた署名運動をはじめた。
 この署名運動を盛り上げるため国民運動推進連絡会議は八二年三月二十一日、広島で「82年・平和のためのヒロシマ行動」をおこなったが、主催者発表で一八万六三〇〇人(警察発表は九万四五〇〇人)が集まった。さらに、五月二十三日には東京で「82年・平和のための東京行動」をおこなったが、これには主催者発表で四〇万六〇〇〇人(警察発表は一八万六〇〇〇人)が集まった。まさに、今日では考えられないほどの高揚ぶりであった。
 署名運動をこうした国民的な盛り上がりにまで導いたきっかけとなったのは、八一年暮れに発表された「核戦争の危機を訴える文学者の声明」だった。井伏鱒二、井上靖、井上ひさし、小田実、安岡章太郎、吉行淳之介、大江健三郎、中野孝次ら三十六人の文学者が連名で反核を訴えたもので、大きな反響を巻き起こした。これに触発されたのか、以後、宗教家、画家・彫刻家、法律家、写真家、演劇人、音楽家らから反核声明が相次いだ。
 当時、私は通勤電車の西武池袋線の電車内で、国連要請署名が行われていたのを目撃したことがある。そうした経験はその前にもなかったし、その後もない。まさに、熱狂的な反核署名ブームといってよかった。

 SSDUはこの年六月七日から七月十日まで国連本部で行われた。会期中に国民運動推進連絡会議は原水協、原水禁、市民団体の関係者約一二〇〇人からなる統一代表団をニューヨークに派遣した(約一四〇〇人を派遣する予定だったが、約二〇〇人が入国拒否に遇った)。
 統一代表団は六月十日、国連要請署名二八八六万二九三五人分をデクエヤル国連事務総長に手渡した。これとは別に、やはり日本で同様の署名活動していた各団体も、それぞれ同事務総長に署名簿を手渡した。それは、公明党、民社党、新自由クラブ、社会民主連合の中道四島と同盟からなる「第二回国連軍縮特別総会に向けて核軍縮をすすめる連絡協議会」が一六一八万八二四七人、新日本宗教団体連合会が三六七四万五三九五人、日本カトリック司教団が四八万四〇〇〇人、といったところだった。日本全体で八〇〇〇万人を超す。有権者数を上回る数で、このことからも、当時の反核署名運動がいかに熱狂的なものだったかがうかがえるというものだ。
 この時、国連に提出された署名は全世界から総計で一億人分。実にその八割が日本人によるものだった。

 六月十二日、ニューヨーク市内でSSDUに向けた国際デモンストレーションがあった。米国の平和団体が主催した。デモのコースは国連本部周辺から、五番街または七番街を経てセントラルパークに至る約七キロ。
 午前十時スタート。コースは全米各地からやってきた人たちで埋め尽くされた。日本からの統一代表団もこれに参加した。
 朝日新聞では、東京本社社会部の漆原淳俊記者と私がその取材にあたった。私は五番街の歩道でデモの隊列を待った。「反核」を訴えるさまざまのプラカードや横断幕を掲げた米国人たちが次々とやってきた。さまざまな民族がいた。子どもの集団もいた。先頭が現れ、最後尾が通りすぎるまでにざっと四時間かかった。
 まるで怒濤のような巨大な人間のうねりが、ニューヨークの繁華街を席巻した感じだった。地下から無数の人間がわき出してきたようだった。「こんなにも多くの人たちが核兵器の全廃を願って動き出したのだ」。巨大なデモ行進を目の当たりにして、私は自分の気持ちが次第に高じてゆくのを覚えた。
 デモに参加した千葉県生協連の中嶋拡子さんは書いている。「このような経験はもう二度とないのではないか。この感激はきっと死ぬまで忘れないだろう」と。
 集結地のセントラルパークに行ってみた。入りきれない人たちがパークの周りを取り巻いていた。中央の広場は見渡す限り人、人、人……であった。デモ参加者は主催者発表で百万人。翌日の地元紙は、警察発表で七五万から八〇万人が集まったと伝えていた。米国史上最大のデモとのことだった。

 こうした空前の盛り上がりにもかかわらず、世界の二大超大国、米国とソ連の厳しい対立は解けず、SSDUはなんら実効ある核軍縮案を打ち出せないまま閉幕となった。
 日本に関して言えば、原水協、原水禁、市民団体の統一行動は飛躍的に進んだものの、「草野・森滝合意」の合意事項の一つである「国民的大統一の組織を実現する」ための関係団体の話し合いは、なかなか進まなかった。

(二〇〇七年五月二十八日記)


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