もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第109回 戦争の記憶

ボルゴグラードのママエフ丘に立つ女性像。足元に見学の人々が見える。その小ささから女性像の大きさがわかる(1977年6月、筆者写す)




 ソ連を旅していて、とくに印象に残ったことの一つは、この国の人たちの間に強く残る戦争への記憶だった。

 「二千万人が死んだんですよ」。至るところで、そう聞かされた。ソ連側が「祖国防衛戦争」と呼ぶ、第二次世界大戦でのドイツ軍との戦いで亡くなったソ連邦国民の死者数だ。二千万人といえば、なんと人口の約一割にあたる。そのためだろう。行く先々で戦士や市民の慰霊碑に出合った。
 とりわけ私の目を奪ったのは、ボルゴグラードでのそれであった。 
 ボルゴグラードは旧名をスターリングラードといい、ソ連南部にあるカスピ海に注ぐボルガ川下流の河畔に広がる大都市である。ここが「死のスターリングラード攻防戦」の舞台で、ここでの勝敗が、第二次世界大戦下の戦局の転機となった。
 
 ソ連との不可侵条約を結んでいたナチス・ドイツが突如、ソ連への進撃を開始したのは一九四一年(昭和十六年)六月のことだ。ソ連にとってはまさに不意打ちだったらしく、独ソ戦でソ連側の死者が多かったのもこのためだとさえ言われている。
 ドイツ軍はいっきにモスクワ近郊まで攻め込むが、ソ連軍の反撃にあってモスクワ攻略に失敗し、南方作戦に転じる。四二年七月、ドイツ軍はスターリングラードへの攻撃を開始し、ソ連軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた。最初はドイツ軍が優勢で、街の三分の二を占領したが、同年十一月から反撃に転じたソ連軍に包囲され、四三年二月、二十万人以上の戦死者と九万人の捕虜を出して降伏した。それから、ソ連軍の反攻がはじまり、四五年五月にはソ連軍による攻撃でベルリンが陥落、ナチス・ドイツは連合国に無条件降伏する。
 戦闘で、スターリングラードの街はことごとく破壊され、戦前四十四万を数えた街の人口は約千五百人になったとされる。街の一角には、廃墟と化した当時の街の一部が保存されていた。

 両軍の最激戦地となったママエフ丘は戦争記念公園になっていた。ここでは、戦後、一平方メートル当たり一二〇〇発以上の弾丸や手榴弾の破片が見つかったという。
 丘の頂上まで続く長い階段をのぼると、戦没者記念堂があった。堂内に入ると、戦没した兵士の氏名が壁に刻まれ、中央には巨大な手首があって、燃えさかる炎をあげるトーチをかかげる。どこからともなく、重苦しく悲痛なコーラスがわき起こり、絶え間なく堂内にこだまする。
 ここを出て、さらに階段をのぼると、丘の頂上に達する。そこには、髪を振り乱し、長剣を振りかざした女性像が立つ。像の高さは五十二メートル。剣の長さは二十七メートル。足もとから剣先まで七十九メートルに及び、重さ七七〇〇トン。「母なる祖国の像」である。
 土、日曜日ともなると、各地から観光客がやってくる。その中でひときわ目立ったのが花婿花嫁のカップル。黒い礼服と純白のウエディングドレス。いま式をあげたばかりの、いかにも初々しいカップルだった。それも、一組や二組ではない。
 それもそのはずで、このとき聞いたソ連側の説明では、ソ連の若者たちは結婚宮殿で式をすませると、その足で近くの対独戦争戦没者記念碑に参拝し、花を供える。それから、レストランで披露宴をし、新婚旅行に旅立つとのことだった。地元のジャーナリストが言った。「こうした習慣を通じて、若者は戦争の犠牲者に思いをはせるのです」

 レニングラード(現サンクトペテルブルグ)。市の北東、ネバァ川を渡り、車で一時間くらい行ったところに広大な敷地をもつピスカリョフ墓地があった。
 独ソ戦では、侵攻してきたドイツ軍がこの街を包囲し、激しい攻撃を加えた。ソ連側によると、十五万発の砲弾が破裂し、十万発以上の爆弾が投下された。ドイツ軍による包囲作戦は九百日に及んだ。
 ソ連側の説明によると、当時のレニングラードの人口は二百万。うち百十万人が死亡したという。うち八十万から九十万人は飢餓による死亡だそうだ。ドイツ軍に包囲されたため食糧の補給を受けられず、市民たちは飢え死を余儀なくされたのだった。ソ連側は、こうした大量の犠牲者を出しながらもこの街を守りきり、ドイツ軍を撃退した。
 ピスカリョフ墓地はこの時の戦没者のための墓地で、四十万人以上の戦没者が眠っているとのことだった。墓地内にはおびただしい墓石が列をなし、それには戦没者の名前が刻まれていた。「喪の散歩道」といわれる道を歩きながら、それらの墓石に目を注いでいると、戦争で生命と生活と未来を失わざるをえなかった市民たちの悲しみが胸に迫ってきて、息苦しくなった。あちこちで、墓石の前にたたずんだり、墓石に刻まれた名前を手でなぞりながら死者と対話する市民の姿をみかけた。

 なにしろ、「祖国防衛戦争」で国民の一割が犠牲になったのだ。生き残った人たちが死者を弔い、平和を祈念するのは当然だろう。それは、戦争を経験したソ連国民の自然な気持ちの発露にちがいないと納得できた。
 が、その一方で、巨大な戦没者記念像や記念碑、墓地に接すると、そこに国家の(ということは、国家を支配しているソ連共産党の)意思を感じた。つまり、国家として、国民に対し「あの戦争を忘れるな」と積極的にキャンペーンしているように思えた。
 戦争を勝利に導いたのは国家(共産党)である。だから、戦争を記憶するということは、一面では、戦争における国家(共産党)の役割と功績を改めて確認するということでもある。そこで、共産党は国民に過ぐる戦争の記憶を植え付けることで、党への支持、党の下での団結を国民に訴え続けているのだろう、と私は解釈した。

 ひるがえって日本はどうか。第二次世界大戦での戦没者は三百十万人とされるが、毎年八月十五日に政府が慰霊式を行い、天皇の言葉を受ける程度で、国家として戦没者を積極的に慰霊しようという姿勢はこれまでのところ感じられない。むしろ、日本では、戦争はあまり積極的に思い出したくない過去として葬られてきたといえる。とくに軍人・軍属以外の一般戦災者は国家から顧みられることもなかった。
 広島、長崎の原爆死没者に対しては毎年、自治体主催の慰霊式が催され、平和記念施設も整備されてきたが、一晩で約十万の死者を出したとされる東京大空襲(一九四五年三月)については今なおその犠牲者の氏名の全容が明らかになっていないばかりか、大空襲の実相を伝える記念館もできていない。ましてや、一般戦災者に対する国家補償がなされることはなかった。
 戦後続いてきた日本の平和が、三百十万人にのぼる日本人の生命と引き換えにもたらされたものであることを考えれば、戦争で命を奪われた人たちはもっと手厚く遇され、日本国民の記憶のなかに長くとどめられるべきではないか。ソ連の戦没者記念施設を見るたびに私はそう思わざるをえなかった。

 私たち取材班はグルジアの農村を訪れたとき、果樹を栽培している農家に立ち寄った。家族と談笑中、私は、家族に尋ねた。「日本について知っていることは何ですか」。家族の答えは、たった一言だった。「ヒロシマ」。広大無辺なソ連の中では辺地といってよい片田舎のごく普通の人たちが日本について知っていたのは、広島の原爆被爆という一事だった。その答えに私はひどく感動した。そして、ヒロシマの世界化を改めて認識するとともに、当時のソ連政府の国民に対する「平和教育」の一端を垣間見た思いだった。
 

(二〇〇七年四月十八日記)


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