もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第70回 新宿騒乱事件の背後にも「ベトナム」


新宿騒乱事件を伝える1968年10月22日付の朝日新聞朝刊




 思わず、息をのんだ。まるで廃墟のようなすさまじい光景だったからだ。
 一九六八年(昭和四十三年)十月二十一日夜の東京・新宿の国鉄新宿駅構内。各線の発 着ホームには瓦礫のような大小の石が無数に転がり、砕けたガラス片が散らかっていた。ホ ームの屋根の下につり下げられていた、電車の行き先を示す方向指示板のガラスは無惨に もことごとく破壊され、粉々になったガラスがホーム上に落ちていた。ホームのわきには無人 の電車が止まっており、窓ガラスが壊されていた。
 そのうち、駅の外から次々と群衆がホームに入り込んできた。ホーム上を行ったり来たり し、立ち去ろうとしない。群衆の数は増える一方で、やがて、ホームから溢れんばかりの人数 となった。駅員の姿は全く見当たらない。
 東口駅前の広場に出てみると、そこは大群衆で埋め尽くされていた。その中心あたりを、 学生の集団がじぐざくデモを繰り返す。夜がふけ、機動隊が学生集団や群衆の排除と検挙 にかかった。学生や群衆の一部は駅前のビル街に逃げ込み、機動隊が引くとまた広場に集 結する。まるで無警察状態のような騒動と混乱は、二十二日未明まで続いた。
 警視庁は二十二日午前零時十五分、騒乱罪適用に踏み切った。騒乱罪容疑で学生ら三 百五十二人が逮捕された。一九七〇年前後に全国各地で展開された大衆的な闘争で騒乱 罪が適用されたのはこの時だけ。このため、新宿駅での学生や群衆による破壊行為は、新 宿騒乱事件と呼ばれる。

 新宿騒乱事件を引き起こしたのは、反代々木系各派の学生たちだった。
 反代々木系各派の学生はこの日、中央大、法政大、早稲田大などで集会を開いたあと、 夕方から夜にかけて各派ごとに国会、防衛庁、新宿駅に向けてデモを敢行した。新宿駅を目 指した約千人は御茶ノ水駅付近で集会を開いた後、国電に乗り込んで代々木駅で下車し、 ホームから線路伝いに新宿に向かい、新宿駅構内に突入した。そして、警備にあたっていた 機動隊に投石、さらに、駅の施設や設備、電車を次々と破壊した。私は目撃していないが、 翌日の新聞によれば、学生の一部は電車の中のシートを持ち出して火をつけたという。ま た、枕木が炎を上げて燃える写真が載っていた。私が駅構内で見た惨状は、この時の破 壊、放火の跡だったのだ。

 なぜ、学生たちは国会や防衛庁のほかに新宿駅を目指したのだろうか。それは、前年に 新宿駅構内で起きた事故がからんでいた。
 一九六七年八月八日未明、新宿駅構内で、同駅を出ようとしていた下り八王子行き貨物 列車(二十両編成)に同駅に入ってきた上り新宿駅行き貨物列車(十九両編成)が衝突し た。下り貨物列車はガソリンを、上り貨物列車は砕石を広くそれぞれ満載していた。衝突と 同時に上り貨物列車の電気機関車が脱線し、はずみで機関車の機械室から出火。その火 が、下り貨物列車のタンク車に引火した。タンク車はガソリンで満タンだったから、タンク車は 大音響とともに爆発し、前後のタンク車にも燃え移った。衝突のはずみで線路づたいにこぼ れたガソリンも燃え上がり、約三百メートルにわたって火の手が上がった。一時は燃えさか る高さ約二十メートルの火柱が、夜空を焦がした。
 この事故で、電車一一八五本が運休し、一一一本に遅れが出た。影響は首都圏の通勤客 ら二百万人に及んだ。衝突事故の原因は上り貨物列車の機関士、機関助士によるブレーキ 操作のミスだった。

 事故を大きくしたのは、タンク車に満載されていたガソリンだったが、その正体は、米軍用 のジェット機用燃料だった。引火点は四〇〜五〇度。わずかの衝撃でも爆発する。こんな危 険物を積んだ列車が、乗降客数日本一の新宿駅構内を分単位の過密ダイヤの合間をぬっ て運行されていたのだ。このことは、一般の市民には知らされていなかった。未明の列車衝 突事故が、この事実を白日のもとにさらけ出したのだった。
 この事故を機に、マスコミも国鉄による米軍ジェット機用燃料の輸送に目を向け、それが日 本の市民生活に及ぼす危険性を警告した。
 私もこの輸送に関心をもち、その実態を明らかにしたいと思い立った。国鉄当局は口が堅 かったから、国鉄労組を訪ねた。労組の話から、おおまかな実態がつかめた。それは、次の ようなものだった。
 ――神奈川県横浜市浜安善地区に日本屈指の石油基地があり、その中に米軍の貯油施 設がある。そこから、ジェット機用燃料を積んだタンク車を連結した米軍専用列車が毎日、出 てゆく。行き先は東京都の横田、立川両米軍基地。両基地へのコースは二つあり、一つは 南武線―青梅線経由のコース、もう一つは山手線―中央線経由のコース。新宿駅構内で事 故を起こしたのは山手線―中央線経由の列車だった。
 国労に頼んで、南武線―青梅線経由の列車に乗せてもらった。安善駅から立川駅まで。 時速三〇キロのノロノロ運転で、ざっと二時間の行程だった。機関士が言った。「南武線沿 線は人口急増地帯のうえに無人踏切が多いんです。ですから、踏切のたびに気が気でない」
 国労によると、ベトナム戦争の拡大につれて輸送量が増えた。関係者によると、輸送は在 日米軍と国鉄が結んだ協定に基づいて行われているが、そうした両者の協力は日米安保条 約による地位協定に基づくもの、とのことだった。
 朝日新聞は一九六八年の年始めから、一面で「日本の中のベトナム戦争」という連載を始 めた。ベトナム戦争の激化が日本にもたらした影響を紹介したものだった。私もその筆者の 一人となったので、そこに、米軍専用燃料列車の同乗記を書いた。

 ともあれ、こうした実態が明らかになったことから、「ベトナム反戦」を掲げる反代々木系学 生としては、新宿駅を標的の一つとしたのだった。つまり、日本を後方拠点にしてベトナム戦 争を続ける米軍と、その米軍に加担する国鉄当局への抗議の行動だったわけである。が、 駅の施設を破壊し、電車の運行をまひさせるというやり方が駅を利用する一般市民から支 持されるはずもなく、むしろ、激しい非難を浴びた。十月二十一日夜も、新宿駅前では、帰宅 の足を奪われたらしい中年のサラリーマンふうの男性が、学生たちに「君たちは駅を壊して どうするんだ」と詰め寄る光景がみられた。

 それに、「十月二十一日」そのものが、ベトナム戦争と深く結びついた日であった。
 当時、世界的な関心を集めていたベトナム戦争が新たなエスカレーションの階段を登った のは、一九六六年六月二十九日の米軍機による北ベトナムのハノイ、ハイフォンへの爆撃 だった。ハノイは北ベトナムの首都、ハイフォンは同国の主要港だっただけに、それへの爆 撃は全世界に衝撃を与えた。日本では、当時、労働組合のナショナルセンターであった日本 労働組合総評議会(総評、連合の前身)が米国政府に対し抗議の声をあげ、労働組合とし て統一して抗議のストライキを行うことを決めた。そして、同年十月二十一日には、総評加盟 の五十四単産がベトナム反戦統一ストをおこなった。総評の発表によれば、全国で五百四 十七万人が参加した。ベトナム戦争に反対してこれだけ多くの労働者がストライキをしたの は世界で初めてだった。
 そんな経緯から、その後、十月二十一日が「国際反戦デー」に設定され、毎年この日に世 界各地でベトナム人民支援の国際統一行動が行われるようになった。日本では、総評と中 立労働組合連絡会議(中立労連)が中心となった集会とデモが続く。
 この年も、この日に東京、大阪をはじめとする全国六百カ所で総評、中立労連共催の、ベ トナム戦争に反対し沖縄返還を要求する集会とデモが行われ、労組員ら八十万人が参加し た。反代々木学生の、国会、防衛庁、新宿駅をターゲットにした闘争も、いわばこれに便乗し た行動だったわけである。

 ところで、新宿騒乱事件を生んだ一九六八年は、私自身にとっても、ベトナムがらみで忘れ られない年となった。早稲田大時代の同級生、酒井辰夫が南ベトナムのサイゴン(現ホーチ ミン)で殉職したからである。彼は日本経済新聞のサイゴン特派員だったが、この年八月二 十二日未明、支局兼自宅のアパートで就寝中、南ベトナム民族解放戦線が発射したロケット 砲弾がアパートに命中、その破片が頭に当たり、死亡した。当時、三十三歳。ベトナム戦争 中に殉職した日本人記者としては二人目だった。
 サイゴン解放から十年後の一九八五年、サイゴンを訪れる機会があった。私にとっては初 めてのサイゴンであったが、戦火が遠ざかって平和を感じさせる街を歩きながら亡き友の冥 福を祈った。 (二〇〇六年三月六日記)                    





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