もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第69回 ボタンの掛け違いから欠陥空港に


機動隊員3人の死亡を伝える1971年9月16日付の朝日新聞夕刊




 一九六七年(昭和四十二年)十月十日から本格的に始まった新東京国際空港(成田空港) の建設工事は、遅々として進まなかった。必要な用地の買収が、土地所有者である農民の 組織、三里塚・芝山連合空港反対同盟とこれを支援する反代々木系各派の強い抵抗によっ て難航したからだ。
 このため、新東京国際空港公団は用地の強制収用に着手する。

 まず、建設用地内に残る反対派の土地に対する千葉県の第一次強制代執行が一九七一 年二月二十二日から三月二十五日にかけておこなわれた。対象は第一期工事区域内の四 〇〇〇メートル滑走路北端にある一坪運動共有地六件で、計一五〇〇平方メートル。一坪 運動共有地とは、多数の人が一坪ずつ共同で所有する土地のことで、行政による土地収用 手続きを複雑化、遅延化させるためにあみだされた戦術だった。
 千葉県は延べ二万五千二百人の警官に守られて強制代執行の作業を進めたが、反対同 盟は農民、反代々木系の学生、労働者ら延べ二万八百人(警察調べ)を動員、対象地点に とりでをつくってたてこもったり、地下につくった壕にひそんだり、身体を立木にしばりつける などして抵抗した。千葉県はこれら反対派を排除して強制代執行を終えたが、この期間中、 連日のように警備の機動隊と学生・労働者が衝突し、四百八十七人が逮捕され、反対派、 警官合わせて七百七人がけがをした。

 さらに、千葉県はこの年九月十六日から、第二次強制代執行を始めた。対象は第一期工 事区域内に残る反対派の三つの団結小屋と一坪運動共有地の四カ所で、計四三四五平方 メートル。 
 この日、千葉県は早朝から四カ所にブルドーザー、クレーン車などを出して反対派が築い たバリケードの排除にかかった。警備のために出動した警官は五千三百人。これに対し、反 対派は農民、学生、労働者ら三千二百人を動員し、団結小屋にたてこもったり、ゲリラ活動 を展開するなどして抵抗し、各所で機動隊と衝突した。  
 この第二次強制代執行に報道各社は大規模な取材態勢を敷いた。朝日新聞も社会部や 写真部を中心に大量の取材陣を送り込んだ。私もその一員として、前夜から三里塚の旅館 に設けられた取材本部につめていた。私の役割は、取材本部にいて、各所に配置した記者 から送られてくる情報をまとめることだった。
 午前十一時すぎだったろうか。出先の記者から、取材本部に連絡が入った。「機動隊員三 人が学生集団に襲われて死亡したらしい」。取材本部にいたデスクや記者たちは総立ちにな った。「本当か、それは」。何人かの記者が取材本部から駆けだして行った。確認のためで ある。
 機動隊員が死亡したのは成田市東峰地区。神奈川県警の機動隊員二百五十人がヘルメ ットをかぶった約五百人の学生に取り囲まれた。学生たちは火炎びんを投げ、角材をふるっ て襲いかかった。この衝突で機動隊員の三人が死亡し、三人が重傷、十八人が軽傷を負っ た。成田空港建設にからんで死者が出たのは初めてだった。
 「逃げ遅れた機動隊員が手錠をはめられ、角材でメッタ打ちにされた」
 「火炎びんで火だるまになった機動隊員もいた」
 刻々と出先の記者から入ってくる情報を受けながら、私は暗い気持ちにひきずりこまれた。 あくまでも空港建設を阻止しようとする反対派と、これを力で押さえつけようとする、むき出し の国家権力との激突を見た思いだった。「まるで戦争だな、これは」。その日の朝日新聞夕 刊は「成田で機動隊員3人死ぬ 第2次代執行 最大の流血」と、一面トップでこの惨事を伝 えた。
 衝突はその後も続き、千葉県が第二次強制代執行を終えたのは九月二十日だった。結 局、第二次強制代執行での逮捕者は四百七十一人。死者は三人(殉職した機動隊員)、負 傷者は警官、反対派合わせて百八十三人にのぼった。

 第二次強制代執行によって第一期工事区域内にあった団結小屋など反対派の拠点をほ ぼ撤去した空港公団は、空港の建設をいそぐ。が、反対派の抵抗で工事は難航し、ようやく 空港の開港にこぎつけたのは一九七八年五月二十日のことだ。当初の計画では、政府は閣 議決定から五年後の一九七一年三月に開港させる予定だったが、それが十二年後にずれ 込んだ。しかも、四〇〇〇メートル滑走路一本での開港だった。
 それに、開港もスムーズに進んだわけではなかった。開港を間近にひかえた七八年三月 二十六日、反対同盟を支援する反代々木系政治党派の一つ、第四インターの活動家を中 心とする赤いヘルメットのグループが、完成したばかりの管制塔に乱入、占拠し、管制機器 を破壊した。百五十六人が逮捕されたが、この事件により、開港は二カ月遅れた。

 四〇〇〇メートル滑走路一本だけでは、激増する航空便をさばききれない。国際空港とし ては欠陥空港である。そこで、空港公団は第二期工事として、第二の滑走路、二五〇〇メー トル滑走路の建設に着手する。しかし、また、用地の買収が難航し、工事はなかなか進展し なかった。
 やがて、政府、反対派双方から「話し合い解決」の機運が生じる。政府側には、工事の遅 延からくる深刻な手詰まり感があり、一方、反対派側には、反対派農民の減少、支援勢力の 衰退化、活動家の高齢化といった問題が生じてきていた。こうした事情が、双方に「歩み寄 り」を促したものと思われる。
 学識経験者グループのあっせんで、一九九一年十一日二十日、成田市で政府と反対派の 一部住民とが直接対話をするシンポジウムが開かれた。席上、奥田敬和運輸相は「位置決 定で地元に理解を得るための努力が十分でなかった。強制収用をめぐり流血の事態が発生 し大きな溝をつくってしまった」と陳謝した。成田空港問題で、国の代表が反対派住民に陳謝 したのは初めてだった。
 これを受けて、九三年には、国、千葉県、反対派住民らによる「成田空港問題円卓会議」 が発足。九四年の最終報告には、第二滑走路の建設の必要性、話し合いによる用地取得 などが盛り込まれた。しかし、その後、具体的な話し合いは進まず、九六年に至って政府は 「二〇〇〇年度末までに第二滑走路を建設する」と表明する。サッカーのワールドカップ日 本・韓国共同開催に間に合わせたいというのが理由だった。反対派はこれに反発し、用地買 収問題は再び暗礁に乗り上げる。
 第二滑走路は二〇〇二年四月十八日から使用が始まった。でも、全長二一八〇メートル。 当初計画の二五〇〇メートルには少し足りない。政府は、あくまでも二五〇〇メートル滑走 路の建設をめざしているところから、「暫定滑走路」と位置づけている。

 閣議決定から、すでに四十年。なのに、いまだに当初計画の実現をみない成田空港。世界 空港史上でもあまり例をみない欠陥空港といっていいだろう。そして、この間に流されたおび ただしい血のことに思いをはせると、暗たんたる気持ちに襲われる。
 それもこれも、混乱は、空港建設にあたり、問答無用とばかり地元住民の意見を聞くことも なく、一方的に建設強行に走った政府のやり方に端を発しているとみていいだろう。公共施 設の建設にあたっては、当該地域の住民との合意が優先されなくてはならず、反対があった 場合は、行政側は誠意をもって対応し、話し合いで解決をはかるべきだ――成田空港問題 は、私たちにそんな教訓を残したと言えるのではないか。そうした教訓を得るまで払わされた 代償はあまりにも大きかったが。

 成田空港を利用するたびに、私は一人の人物を思い起こす。英文学者で評論家だった中 野好夫(一九八五年没)だ。中野は、反対同盟の戸村一作委員長が「空港建設反対」を掲げ て一九六八年の参院選挙全国区に立候補した時、推薦人に名を連ねた。そして、存命中は 決して成田空港を利用しなかった。
 中野が成田空港問題で発言したことがあるかどうか、私は知らない。私自身は中野の口か ら、そうした発言を聞いたことはない。が、こうした行動によって、中野も成田空港の建設に 反対していたのだ、と知った。中野は、戦後のあらゆる平和運動にかかわったが、そのかか わり方は、一市民の立場で、しかも必ず実践を通じてかかわるという行き方だった。成田空 港問題でも、そうした行き方を貫いたのだ、と私は理解している。
 成田空港問題では、多くの知識人がさまざまなやり方でかかわった。が、中野好夫のよう なやり方で反対を貫いた人は少ない。    (二〇〇六年二月 二十六日記)





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