もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第61回 新左翼諸派の潮流


第1次羽田事件の模様を伝える1967年10月9日付の朝日新聞社会面




 佐藤栄作首相の南ベトナム、米国訪問を実力で阻止しようと羽田空港に集結し、警備の機 動隊と激突して第一次羽田事件(一九六七年十月八日)、第二次羽田事件(同十一月十二 日)を起こした反代々木系学生とは、どんな集団か。
 それを知るには、戦後日本の学生運動の歴史をたどる必要がある。

 学生運動で指導的役割を担った各大学の学生自治会の全国組織である全日本学生自治 会総連合(全学連)が結成されたのは一九四八年(昭和二十三年)九月十八日のことだ。
 東京で開かれた結成大会には、百四十五校の代議員二百五十人が参加し、六項目のス ローガンを採択した。それは@教育のファッショ的植民地再編成反対A学問の自由と学生 生活の擁護B学生アルバイトの低賃金とスキャップ反対Cファシズム反対、民主主義を守 れD青年戦線の即時統一E学生の政治活動の完全な自由、といったものだった。
 本部は東大構内に置かれた。参加校は国公私立の計二百六十六校に及び、傘下の学生 は二十二万人といわれた。
 初代委員長は日本共産党東大細胞のリーダーで東大自治会委員長の武井昭夫氏。ほか の幹部にも共産党員が多かった。このことからも分かるように、結成当時の全学連は、共産 党の影響力が極めて強かった。
 結成直後の全学連が取り組んだのは基地反対闘争など反戦平和のための闘いだった が、最もエネルギーを投入したのは「反レッドパージ闘争」である。レッドパージとは、一九五 〇年に勃発した朝鮮戦争と相前後して、占領軍の連合国軍総司令部(GHQ)によって強行 された共産主義者やその同調者の公職や民間企業からの追放である。共産党幹部のほ か、官公庁から約千二百人、民間企業から約一万一千人が追放された。
 レッドパージの嵐は学園にも及んだ。これに対し、全学連は「反レッドパージ闘争」を組織 し、各大学で試験ボイコットやゼネストなど強力な闘争をおこなった。このため、文部大臣も ついに大学内のレッドパージを断念せざるをえなくなり、学生たちの“勝利”となった。反レッ ドパージ闘争に参加した広汎な一般学生を突き動かしていたのは「平和と民主主義を守れ」 という思いだったが、闘争を引っ張った全学連の幹部を指導していたのは共産党だったとみ ていいだろう。

 私は一九五四年から五八年まで早稲田大学に在学したが、この間、学内の運動を主導し ていたのは日本民主青年同盟(民青)の活動家だった。民青は、日本共産党の青年組織。 要するに、そのころは、「左翼」といえば、イコール共産党のことであった。つまり、共産党以 外の左翼なんて考えられなかったのである。

 が、全学連と共産党の関係に亀裂が生ずる。きっかけは「スターリン批判」と「ハンガリー事 件」だ。
 スターリン批判とは、一九五六年二月にソ連共産党大会で同党のフルシチョフ第一書記 が、三年前に死去したスターリン元首相を批判したことをさす。批判の中心は、党内民主主 義の抑圧、集団指導のじゅうりん、民族政策の誤り、己への行き過ぎた個人崇拝など。それ まで全世界の共産主義者の最高指導者として神格化されていたスターリンへの批判は、全 世界に、とりわけ共産主義者に衝撃を与えた。
 スターリン批判は、当時、西側から「ソ連の衛星国」と言われていた東欧の社会主義国に 波紋を広げた。この年の十月、ハンガリーのブダベストで、民衆による民主化要求デモが起 こり、軍隊や官僚までがこれに参加するに至った。イムレ・ナジ政権は民衆の要求を入れよ うとしたが、ソ連は武力でこれを鎮圧し、親ソ的な政権を樹立した。これが、ハンガリー事件 である。
 日本では、スターリン批判を機に全学連を指導していた学生党員に、ソ連共産党が主導す る国際共産主義運動に対する懐疑、批判が生じた。それは、日本共産党がハンガリー事件 でソ連の介入を支持したことから決定的になった。一九五八年には、日本共産党を除名され た学生活動家によって「共産主義者同盟」(ブンド)が結成された。五九年のブンド第三回大 会で採択された規約は次のようなものだった。
 「同盟の目的は、ブルジョアジーの打倒、プロレタリアートの支配、階級対立にもとづくブル ジョア社会の止揚および階級と私的所有のない新しい社会を建設することにある。同盟は、 一国の社会主義建設の強行と平和共存政策によって世界革命を裏切る日和見主義の組織 に堕落した公認の共産主義指導部(スターリン主義官僚)と理論的、組織的にみずからをは っきりと区別し、それとの非妥協的な闘争を行い、新しいインターナショナルを全世界に組織 するために努力し、世界革命の一環としての日本プロレタリア革命の勝利のためにたたか う。同盟は、民主集中制の組織原則に貫かれる日本労働者階級の新しい真の前衛組織で ある」
 日本共産党に代わる“真の前衛党”を目指そうというわけである。当然、資本家階級ととも にソ連や日本共産党も打倒の対象となった。
 この時期、いま一つ、反共産党組織が誕生した。一九五七年に結成された「日本トロツキ スト連盟」だ。同連盟はその後、「日本革命的共産主義者同盟」(革共同)と改称する。その 後、革共同は、革共同革マル派と革共同中核派とに分裂する。
 革共同のスローガンは「反帝・反スタ」。すなわち「反帝国主義・反スターリン主義」であっ た。具体的には、米英など帝国主義国とソ連と中国に代表される既成の社会主義国と共産 党を打倒して(つまり、もう一度革命を起こして)真の労働者国家の樹立を図るというものだ った。
 こうして見てくると、ブンドの理論にも革共同のそれにもトロツキズムからの影響が読み取 れる。トロツキズムとは、ソ連の革命家だったトロツキーの永久革命論を中心とした思想とさ れる。その永久革命論は、プロレタリアート(労働者階級)が政権を取った場合、社会主義革 命に進まなければならないが、後進国ロシアは人口の大部分が農民なので、この任務が阻 害される。したがって、プロレタリアートはヨーロッパの先進国の革命を助け、その協力を得 なければ革命は成功しない――と説いた。そして、ロシア革命が世界的規模で成功しなかっ たのは、スターリンの「一国社会主義論」がソ連共産党を支配し、スターリンが世界革命を裏 切ったからだ、とする。
 スターリンとの権力闘争に敗れ、国外追放されたトロツキーは、反スターリン活動を続ける が、潜伏先のメキシコで暗殺された。
 これに対し、日本共産党はトロツキーを「反革命分子」、トロツキズムを「反革命的な理論」 とし、「トロツキズム(トロツキー主義)は、マルクス・レーニン主義に敵対する、『理論』と行動 の花を『咲かせ』ようとしたものの、誤っていたがゆえに失敗し、かなり以前に歴史の舞台か ら投げおとされ、多くの人びとからも忘れ去られていたものである」とした。ブンド、革共同な どに対しても「スターリンの全面的抹殺をはかったり、その論敵トロツキーの全面的復活をは かったりするのは、まったく笑止といわなければならない」とし、その理論を「反社会主義、反 共産党の反革命的本質があざやかに露呈されている」と決めつけた(榊利夫著『現代トロツ キズム批判』、一九六八年、新日本出版社刊。榊氏は当時、共産党の理論家)。

 日米安保条約の改定に反対して展開された一九六〇年の反安保闘争は戦後最大の大衆 運動といわれたが、この時、全学連主流派は、社会党、総評、共産党が中心の安保改定阻 止国民会議のデモを「お焼香デモ」と批判し、自らが率いる学生デモ隊を国会構内に突入さ せるなど激しい闘争を繰り返し、内外の注目を浴びた。この時、全学連主流派を主導してい たのはブンドだった。六月十五日にも全学連主流派のデモ隊が国会構内に突入して警官隊 と衝突、デモに参加していた東大生・樺美智子さんが死亡したが、樺さんはブンドの活動家 だった。

 そして、一九六七年の第一次、第二次羽田事件。事件を引き起こしたのは「三派全学連」 だった。三派とは、革共同中核派の学生組織の日本マルクス主義学生同盟中核派(マル学 同中核派)、ブンドの学生組織の日本社会主義学生同盟(社学同)、それに社会党の青年組 織、日本社会主義青年同盟解放派の学生組織の全国反帝学生評議会連合(反帝学評)だ った。
 これら三派が「全学連」と称する組織をつくったので、マスコミはこれを「三派全学連」と呼ん だ。これら三派は日本共産党と敵対する立場をとっていたから、マスコミは三派に結集する 学生を「反代々木系学生」、「三派全学連」を「反代々木系全学連」とも呼んだ。日本共産党 の本部が国鉄代々木駅近くにあったことから、マスコミでは「代々木」が日本共産党をさす業 界用語となっていたからだ。三派全学連の委員長は秋山勝行氏(横浜国立大)。秋山委員 長はがぜん、マスコミ上のヒーローとなった。
 この時期、全学連は「三派全学連」だけではなかった。革共同革マル派の学生組織、マル 学同革マル派も「全学連」を名乗った。そればかりでない。日本共産党系の学生組織も「全 学連」を名乗っていた。要するに、この時期、三つの全学連が並立していた。
 三派全学連の秋山委員長に取材したことがある。彼はこう語ったものだ。「われわれ学生 には、危機の到来を告げる警鐘乱打の役割と、腰の重いプロレタリアート本隊をひっぱって ゆく牽引車の役割が課せられているのだ」と。これに対し、第一次羽田事件を日本共産党が 「警察が意図的にトロツキスト分子をあばれさせた“茶番劇”である」と断じたため、反代々木 系学生と同党の対立は深まった。

 ところで、羽田事件のころ、マスコミで「反代々木系学生」と呼ばれた学生たちは、その後、 マスコミで「新左翼」と呼ばれるようになる。その新左翼は分裂を繰り返し、さまざまな党派 (セクト)が誕生し、消滅した。六〇年代末から七〇年代にかけての最盛期には五流十三派 もあるといわれた。
 そのうちの一部はやがて武装闘争など過激な路線に突っ走る。このため、一部の新左翼 はマスコミで「過激派」と呼ばれるようになる。                                          





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