もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第60回 第一次羽田事件の衝撃――七〇年闘争の幕開け


第1次羽田事件を伝える1967年10月9日付の朝日新聞




 新聞社の編集局は、日曜日は閑散としている。夕刊はないし、取材先の官公庁や企業は休みだから、記者の大半は出社してこないからだ。しかし、その日の編集局、とりわけ社会部周辺は騒然としていた。一九六七年(昭和四十二年)十月八日のことだ。

 この日、私は埼玉県春日部市の自宅から東京郊外の多摩湖畔に向かった。ここで日本共 産党主催の「赤旗まつり」が開かれるので、それをのぞくためだった。これは、同党機関紙 「赤旗」読者を中心とする年一回の恒例行事で、ピクニックスタイルの家族連れが、にわかづくりの舞台で繰り広げられる演芸や踊りを楽しんだり、さまざまなテーマの展示を見たり、弁当を広げたり、といった催しだ。この日は雲一つない秋晴れとあって、約八万人の参加者で にぎわった。
 昼過ぎ。私はそこから都心の京橋へ向かった。大学時代、下宿で知り合った友人の結婚式の披露宴に出席するためだった。披露宴中、「羽田で学生と警官隊の衝突があったようだ」というニュースが会場内に伝わった。「そうだ。きょうは、佐藤栄作首相が羽田空港から 東南アジア歴訪に出発する日だ。きっと何か事件が起きたに違いない。社会部に上がらな くては」。とっさにそう思った私は、披露宴もそこそこに有楽町の本社に急いだ。
 社会部に着いたのは、午後四時近かったろうか。社会部デスク周辺に部員が群がっていた。電話が鳴る。受話器を手にしっぱなしの部員がいる。社会部は慌ただしい雰囲気に包まれていた。
 「大事件だな」と私は思った。聞けば、羽田で佐藤首相の出発を阻止しようとした反代々木 系(反日共系)の学生たちと、これを阻止しようとした機動隊が衝突し、学生一人が死亡した という。とっさに私の脳裏にひらめいたのは、反安保闘争の最中の一九六〇年六月十五日、全学連(全日本学生自治会総連合)主流派による国会構内突入で東大生樺美智子さん が死亡した事件だった。
 私は悔やんだ。事件の現場に居合わせなかったことを、である。というのも、私は、当時、 民主団体担当として学生運動もカバーしていたからだ。学生が大挙して羽田に集結するとい う情報を前夜にでもつかんでいたら羽田に直行したものを、と悔やんだ。

 事件の概要はこうだ――この日午前十時三十五分、インドネシア、南ベトナムを訪問する 佐藤首相を乗せた日航特別機が羽田空港を出発したが、これを阻止しようと全国から集ま った反代々木系(反日共系)全学連の学生約二千五百人(警視庁調べ)が、空港入り口の海老取川にかかる三つの橋付近で、特別機が離陸する直前から、警備の機動隊約二千人に角材でなぐりかかったり、投石したり、警備車に放火したりし、約三時間にわたって学生と機 動隊の衝突が繰り返された。
 橋の一つ、弁天橋上の衝突で、京大生山崎博昭君(一八歳)が死亡。警視庁の発表では、 警官六百四十六人、学生十七人が重軽傷を負い、警備車七台が放火されて炎上した。学生 ら五十八人が放火、公務執行妨害の現行犯で検挙された。

 警視庁の発表では、警官側の負傷者数の多さが目立つ。警備当局としては当然、事前に 学生側の動きを察知して万全の警備体制を敷いていたはずだ。しかるに、警察側のこの被 害の大きさ。おそらく、警備当局は、学生側の動員がこれほど大規模なものになるとは予想していなかったのではないか。つまり、学生側の“戦力”や戦術を見誤ったからではなかったか。
 当時の社会部の公安担当記者・周郷顕夫氏も次のようなレボートを社内誌に書いている。
 「十月八日午前四時三十五分。羽田空港へ通ずる弁天橋上に学生たちの姿は、まだなか った。夜はまだ深く、わずかに海老取川の川上の木橋付近で黒い人影がせわしげに動いて いた。なじみの紺の出動服姿であった。ものものしく有刺鉄線が張られ、バリケードが築かれ つつあった。やがて、空港ターミナルのむこうで、東の空はひつそりと紅をさし、日曜の朝はすがすがしく明けた。
 沖釣りの船が客を乗せて、橋のたもとから海に出る。『ひょっとすると、肩すかしかな』。警視庁の公安担当として、多くの同僚といっしょに警戒、取材に来たのだが、日曜で、夕刊もな し、ぼくは高見の見物をきめ込むことにした。それが数時間後、あのような騒ぎになろうとは ――
 午前十一時二十七分。ぼくは弁天橋のたもと、学生と橋をはさんで対じする機動隊の側に いた。それに先立つ三時間前、学生の一部が空港へ通ずる高速道路上に突如、降ってわい たので、あわてて車を飛ばし、帰ったときにはすでに三つの橋は警備車で閉ざされ、対岸に 無数の旗が揺れ始めていたのだった。やがて穴守、稲荷橋方向で黒煙があがりだした。高 見の見物どころではなくなった」

 ともあれ、この事件が世間に衝撃を与えたのは、なんといっても学生側の過激な行動だっ た。学生たちは、ヘルメットをかぶり、角材、こん棒を手にし、これで機動隊になぐりかかった。そればかりでない。学生たちは舗道のコンクリート敷石を砕き、鉄工場の材料置き場から鉄片を運び出して投げつけた。警備車に放火もした。
 敗戦以来、日本では、さまざまな街頭示威運動(街頭デモ)が行われてきた。それに参加し た人たちの行動スタイルといえば、基本的に素手だった。つまり、武器らしいものは何ももた ず、警備の警官に丸腰で立ち向かった。これに対し、警官側はデモ参加者に対して警棒を行使することを辞さず、一九五六年の立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)や一九六〇年の反安保闘争では、デモ参加者に多数のけが人が出た。
 素手から、角材、こん棒を手にした実力闘争へ。これらで厚く強固な警備の壁を突破しよう というわけだった。街頭行動が質的に変わり、新しい段階にエスカレートしたといってよかっ た。マスコミも既成の大衆団体もこれには厳しい目を向け、「暴力」をいさめた。反代々木系の過激な行動に走る学生に対して「暴力学生」という非難が巷に登場するのはこのころからである。
 しかし、反代々木系の学生たちは約一カ月後の十一月十二日、羽田で再び同様の行動に 出る。訪米の旅に出る佐藤首相に対し訪米阻止の実力闘争を繰り広げて機動隊と衝突、多 数の負傷者と検挙者を出した。これにより、マスコミは十月八日の衝突を第一次羽田事件、 十一月十二日の衝突を第二次羽田事件と呼ぶようになった。

 この時期、どうしてこのような出来事が突発したのか。それには、当時の内外情勢から説明しなくてはならないだろう。
 一九六七年の世界は、東西冷戦の真っただ中にあった。核超大国の米国を盟主とする西 側陣営と、やはり核超大国のソ連を総本山とする社会主義陣営とが激しく対立していた。もっとも、その社会主義陣営では、ソ連と中国が対立していた。
 東西冷戦の戦場はベトナムだった。すなわち、このころのベトナムは南北に分かれていた が、そこでは、米国・南ベトナムと、北ベトナム・南ベトナム民族解放戦線が戦っていた。ソ連 と中国が、それぞれ北ベトナム・南ベトナム民族解放戦線を支援していた。これが、「ベトナム戦争」の構図だった。
 ベトナム戦争は、二年前から激化の一途をたどっていた。エスカレーションのきっかけは、 米軍機による北ベトナム爆撃(北爆)だ。一九六五年二月七日のことである。これを機に「米 国は南ベトナムから撤退せよ」というべトナム反戦運動が世界各地で燃えさかった。
 米国内でも反戦運動が起き、一九六六年八月にはワシントン、ニューヨークなどで大規模な反戦デモが行われた。さらに、六七年四月には、ニューヨークとサンフランシスコで総勢五十万人にのぼる反戦デモが行われた。
 日本でも、佐藤内閣が米国の「北爆」を支持したことから、ベトナム反戦運動が広がった。 社会党系、共産党系の労働組合、民主団体が反戦の声をあげたのはもちろんだが、六五年四月には、一般市民による「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」も発足し、反戦運動 は盛り上がりをみせた。
 そうした中で、反戦勢力は、佐藤首相による南ベトナム、米国訪問は「米国のベトナム侵略 に日本が一層加担することになる」と受け取った。そして、反代々木系全学連はこれを実力で阻止しようと羽田に集結したのだった。
 この時期、いま一つの大衆的運動が盛り上がりつつあった。沖縄における祖国復帰運動 である。
 対日平和条約によって日本から切り離され、米国の施政権下に入った沖縄の人たちは、 過酷な異民族支配から逃れようと一九六〇年に沖縄県祖国復帰協議会を結成し、日本復帰運動を始めた。ベトナム戦争の激化によって、沖縄の米軍基地はベトナム戦争のための 支援・補給基地となり、それにともなって基地災害、米軍犯罪が増した。このため、沖縄の人たちの、米軍支配のくびきから脱出し日本へ復帰したいという願いは熱気をおび、復帰運動は激しさを増した。これに呼応したのが本土の、社会党、共産党、総評などの革新陣営で、 沖縄県祖国復帰協と結んで沖縄返還運動にエネルギーを注いだ。
 さらに、この時期、革新陣営が掲げたものに安保破棄(日米安保条約破棄)があった。日米の軍事同盟である同条約は、革新陣営による戦後最大といわれる大規模な反対運動にもかかわらず、一九六〇年に改定された。その新安保条約は十年後の一九七〇年に改定期を迎えることになっていた。だから、革新陣営は、一九七〇年には条約の自動延長を阻止 し、今度こそ破棄に追い込もうと態勢を整えつつあった。

 要するに、この時期、革新陣営には「ベトナム反戦」「沖縄返還」「安保破棄」という三つの課題があったのだ。しかも、この三つの課題は相互に関連していた。すなわち、日本政府が米国のベトナム政策を支持し、在日米軍基地がベトナムで戦う米軍の後方基地になっている のも日米安保条約があるからであり、沖縄で基地災害、米軍犯罪が増加しているのもベトナム戦争が日ごとにエスカレーションしているからだった。その沖縄で、人々は「軍事基地の存在を認めない平和憲法をもつ日本のもとに復帰したい」と声をあげていた。それだけに、革新陣営にとっては、安保条約はなんとしても破棄されねばならなかったのである。
 このため、革新陣営の運動は「七〇年」を目指して動き出していた。そんな中で、反代々木 系学生は「七〇年」を「階級決戦」(革命)の時ととらえ、十月八日の羽田闘争を「第一決戦」 と位置づけ、全国動員で臨んだのだった。
 まさに「七〇年闘争」の幕開けであった。この日を境に日本は激動の日々を迎える。





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