もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第40回 共存の中の競争


本所署記者クラブでの筆者(1964年5月)




 本所署の記者クラブでの勤務時間は午前十時から午後十時までだった。
 午前十時にクラブに到着したら、直ちにわが社の警視庁記者クラブに電話して出勤したこ とを告げ、指示を仰ぐ。それから、警視庁第七方面本部傘下の十一署に電話して、前夜から 朝にかけて事件、事故がなかったかどうか、問い合わせる(これを、警戒電話を入れる、と言 った)。あれば、電話で取材し、夕刊用の原稿にして、これまた電話で社会部に送る。
 夕刊には午後一時半まで原稿が入るので、そのころまで記者クラブで待機する。もちろ ん、この間、管内に大事件や大事故が発生すれば、車で現場に駆けつける。場合によって は、写真部に連絡してカメラマンに来てもらわなくてはならない。
 午後一時半以降は、朝刊のための待機となる。例えば、警視庁記者クラブ詰めの記者か ら「△△署管内で火事が発生したようだから現場に飛べ」「▽▽所管内で交通事故が起きた から、現場へ行け」と連絡がくると、直ちに車でそこに向かう。夕方には、また十一署に電話 して、午後から夕方にかけて管内で事件、事故がなかったがどうか聞く。
 時には、社会部に連絡して社の車を記者クラブに回してもらい、それで各署を回る。各署で は署長や次長と話し込む。こうして、こちらの顔を売り込む。
 夕方から夜にかけ、これらの取材で得た情報を朝刊用原稿にまとめる。短いものは電話で 社会部に吹き込み、長文の原稿は社会部に持ってあがる。
 社会部にあがらなかった時は、午後十時に警視庁クラブに電話し、「これから帰ります」と 報告して帰宅の途につく。
 もっとも、朝早く下宿を出て毎晩十時まで記者クラブにつめているというのは正直言って楽 ではなかった。そこで、時には十時前に帰路につき、下宿近くにきてから十時きっかりに公 衆電話で「これから帰ります」と警視庁クラブに連絡したものだ。後ろめたい気持ちに駆られ ながら。 

 私が本所署記者クラブにいた時に多かった事件・事故といえば、強盗、かっぱらい、盗難、 詐欺、交通事故、火事、子どもの水死などだった。これらを警察や消防署、それに地元の人 から取材し、記事にするのが私の仕事だった。
 たまに殺人事件も起きた。すると、所轄の警察署に捜査本部が設けられた。こうなると、警 視庁クラブ詰めの一課(捜査一課)担当記者の管轄で、私たちサツまわりがやることといえ ば、捜査本部にやってきた一課担当記者を手助けすることだった。
 具体的には、刑事ばりの聞き込みをすることだった。被害者宅の周辺の家々を訪ねては 「犯人らしい人物を見なかったか」とか、「被害者の交友関係は」などと聞いて回るのだ。その 結果を一課担当記者に報告すると、彼は「ご苦労さん。これでいっぱいやってくれ」と、なにが しかの飲み代をくれた。おそらく、社会部から引き出した取材費の一部だったのだろう。

  本所署記者クラブに行くまで、私は、そこでは各社記者による「抜いた、抜かれた」という 激烈な報道競争が繰り広げられているのでは、と予想していた。だから、「負けてなるもの か」と身構えて記者クラブの一員になった。
 が、そこでの日常は、予想とは違っていた。和気あいあいとまではいえないが、記者クラブ 内では互いに共存しようではないかという暗黙の了解がそこにはあった。
 第一、当時の記者の通信手段は電話だけ。携帯電話もFAXもまだなかった。その電話にし ても、記者クラブにある電話といえば、警電(警察専用電話)と電電公社の公衆電話各一本 だけだった。社会部や警視庁クラブからの連絡も、これにかかってくる。他社の場合も同様 だ。だから、電話が鳴るので出てみると、他社の記者への連絡だったりする。そんな場合 は、他社の記者にとりつがねばならない。つまり、通信手段は限られているから、お互いに 他社の世話にならざるをえない。
 それに、各社それぞれがこの二つの電話を使って取材しようものなら、順番が回ってくるま でにはとてつもなく時間がかかる。ならば、一社がこの電話を使って代表取材をし、他社に教 えればいいではないか、ということになる。
 要するに、記者クラブの条件を考え、共存共栄でいこうじゃないか、ということだったと思 う。特オチ(自分の社だけ紙面に載らない)だけは避けたいという新聞記者特有の防衛本能 が生んだ一種のルールだったかもしれない。
 現に、午前十時に記者クラブに出勤すると、すでに出勤して来ていた他社の記者が警戒電 話をし終わっていて、取材したネタを教えてくれたこともしばしばだった。これには、ほんとう に助かった。
 それに、私たちは夕刊用の仕事がすむと、よく管内の各署を回ったが、時には、一つの社 の車に各社の記者が乗り込んで一緒に各署を回ったこともあった。また、連れだって一つの 車で飲み屋に行ったり、うまいものを食いに行ったり、有名な庭園や公園に遊びに行ったり もした。こうしたことを通じて、他社の記者とのつきあいも深まった。

 もっとも、競争がなかったわけではない。それは、事故をめぐる報道によく表れた。
 こんなことがあった。子どもが川に落ちて水死した。各社一斉に現場に向かった。翌日の 紙面を見ると、各紙で扱いが違っていた。私が送った原稿は社会面のベタ(一段記事)だっ たが、ある社は、社会面トップになっていた。「やられた」と思った。
 なぜ、こんなことになったのか。私は、よくある子どもの事故だとしか思わなかったが、他紙 のそれは、水死の背景まで突っ込んで書いていた。川に柵がなかったとか、家計が苦しく、 母親が働きに出ていて子どもは一人で遊んでいたとか。
 そうだ。私の原稿は突っ込みが足りなかったのだ。事件・事故の取材にあたっては、その 背景にまで目をこらさなくてはいけない。そして、複眼的な取材に徹しなくてはいけない。要す るに、新聞の記事を書くには、単なる事実の羅列でなくて、切り口が大切なのだ。いわば、ひ ねりが求められているのだ。つまり、「質」の競争といってよかった。私はそうしたことを、各 社記者との競争の中で学んだ。





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