2022年1月25日金、晴時々曇、17-22
年末年始にかけてコロナがつかの間収束、元旦、ご来光を拝みに東海岸の知念岬へでかけた。初日の出を見るのは何年ぶりのことか。たしか二十年以上まえに、東京湾奥の新浦安の埋立地で見たような覚えがある。
知念岬あたりは斎場御嶽に代表される本島で最も神聖な場所とされており、初日の出には絶好のポイントの一つだが、驚いたことに駐車スペースがないほどの混雑ぶり。はて沖縄では「初日の出」がこんなにもメジャーな行事だったのかと訝った。浦安の時はほんの数人しか周りにいなかったはずだが。ちなみに今年は波上宮など初詣の参拝客も多かった。コロナ収束の安堵感が人波を動かしたのだろうか。
コロナ禍における沖縄の被害は甚大だ。これは決して他人事ではなく、自身の体感としてこう言うほかない。経済的にはもちろんだが、10月に濃厚接触者と認定され自宅待機を余儀なくされたときには、コロナの脅威を肌身に感じたものだ。そんな脅威から一時的にも開放されたら、祝祭的な感覚に浸りたくなるのも無理はない。数十年ぶりの初日の出にはこのような心理が働いていたように思う。

沖合に浮かぶ久高島は、ニライカナイにつながるという神の島だ。曇り模様の水平線を縫うように蒼海を射る神の島からのご来光に、自ずと心身が改まる。「今年こそは良い年に」と祈ったことだった。
1月25日現在、祈りもむなしく、コロナ感染は再び大爆発し、沖縄は数度目かのまん延防止重点措置下にある。飲食店は営業時間を制限され、自分自身も勤務日数の制限を強いられている。オミクロン株の感染力の強さを前に、もういつ感染してもおかしくない状況だ。ただ救いは、社会にある程度のコロナに対する耐性がついたことではないか。感染が不節制、不道徳の結果ではなく、いたしかたない、やむをえなかった、といった方向へ。不寛容からある程度寛容な社会へ。コロナ禍による経済的な不安が払底されるのが前提だが、感染者を蔑視せず日常的に起こりうることとしてケアのできる社会への転換をそろそろ発想してもいいころだと思える。