もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第139回 崩壊したのは未熟な社会主義?
雑誌や週刊誌も「東欧革命」を相次いで特集した




 「ベルリンの壁崩壊」といったソ連・東欧圏での激動を受けて始まった朝日新聞の連載企画『インタビュー・どうなる社会主義』では、私を含む三人の記者が十五人の著名人にインタビューしたが、そこでの質問は@ソ連・東欧での激動をどう見るかA激動を生んだ背景にあるものはなにかB社会主義の行方、の三点だった。

 第一の質問「ソ連・東欧の激動どう見るか」に対する諸氏の答えの中で印象的だったのは「ソ連や東欧で激動が生じたのは、既存の社会主義がまだ未熟だからだ」という見方だった。
 宮本顕治・共産党中央委員会議長は「体制としての社会主義は歴史的には、まだ短いもので、私どもは『生成期』といっております。……ソ連が社会主義を名乗ってからまだ七〇余年です。これは資本主義の歴史、日本の明治維新からの歴史と比べても短いものです。そのうえ、一九二四年にレーニンが死んでから、社会主義からの大きな逸脱、誤りが犯されて、それが積もり積もっていました。ソ連国内でもまた東欧でも、ああいう事態にならなければならないような矛盾が山積していたのです」「結論的にいえば、東欧やソ連では、社会主義の本当の基準に合ったような社会主義体制はできていないと思います。長い間チェコスロバキア侵略などを正当化してきたし、経済でもいまだに貧弱な状況ですし、社会主義的民主主義もごく最近まで抑圧されてきました。中国その他も、要するに天安門事件が明らかにしているように、ああいう弾圧を正当化するようでは、社会主義的民主主義は全然ないということです。まだ東欧のような事態は起こっていないけれども、中国とか北朝鮮などをちゃんとした社会主義の国として認めるわけにはいかないというのが、わが党中央委員会の見方です。世界で理想的といいますか、基準にかなった社会主義はまだどこにもない。誤った社会主義が破綻したということは、なにか社会主義のイメージダウンという点では残念だけれども、しかし、一度は通らなければならない当然の道でした」と述べた。

 社会党左派の論客、高沢寅男・代議士もこう述べた。
 「マルクスの考えでは、資本主義が高度に発達して生産力と生産関係の矛盾が成熟したところで社会主義への移行が始まると見たのだが、現実のソ連の革命は、そうなる条件のないとこでできちゃったわけですね」
 「未熟な社会主義であったから、ソ連では、最初の原始的蓄積の段階で独特のやり方をした。これは、スターリンがやったと言われているものですが、農業を集団化して原始的な資本をつくりだし、それで重工業を興すというやり方です。これは第一次世界大戦のあと必ず第二次世界大戦が来る、帝国主義戦争が不可避である、ならば帝国主義の侵略に負けないソ連をつくらなければならないというスターリンの世界観、歴史展望に基づいていた。こうした大集団化とか、重化学工業の建設とか、五カ年計画とかがあったから、第二次世界大戦でヒトラーに勝ったという非常に大きなメリットがあったと思います。ただ、それを強行して行く過程で、本来社会主義の基礎となるべき民主主義が圧迫された。非常に多くの人を殺したとか、非常に多くの人を粛清したとか、あるいは多くの民族が権利を奪われたり、移動させられたとかいう欠陥が伴っていたところに、ソ連の悲劇があったと思う」
 「(ソ連は)もういままでのやり方ではそれ以上前進できない、という大きな壁にぶつかった。その壁はブレジネフの時代に来るということになるわけですが、その壁をどう破るかという努力の中から、ゴルバチョフのペレストロイカが出てきたと思います」

 哲学者の久野収氏も同様の見方だった。私の「ソ連はなぜ行き詰まってしまったのでしょうか」との問いに、こう答えた。
 「ソ連の十月革命は気の毒にも、後進国革命だったから。マルクスが主張したような、資本主義が成熟してプロレタリア階級が最大多数を占め、政権奪取の運動が起こって手に入れた革命政権ではない。後進国であったために、非合法の一握りの職業革命家が敗戦という例外的な条件に恵まれ、反乱する軍隊や農民と結んで、成功させた革命であった。物理学者の武谷三男君は、ソ連を“軍事的、戒厳令的”社会主義と規定したが、本来軍事とか戒厳令とかは社会主義とだけは一致しないものです。はなはだ特異な状況で生まれた、例外的社会主義であるにもかかわらず、自他ともにそう思われなかった。自由、平等、友愛という近代市民革命の理念を形式だけでなく、実質的にも実現しようとする社会主義にとって、人間の生命や権利や権利の平等の問題は社会主義の生死を左右する問題であるはずであった」
「ところがソ連では、この点の軽視が民主主義と社会主義の質の高低を口実に合理化され、内部対立の暴力的禁圧と個人の人権の国家的抑圧の両方による一党独裁の官僚専制による福祉実現に突っ走った。フィードバック装置の取り外しを一つひとつやって、この独裁はここまで来てしまった。実態は形式的民主主義を実現するブルジョア革命だったにもかかわらず、ロシア革命は民主主義を生み出し、根付かせる道を馬鹿にしたと言うよりほかはない」

 要するに、ロシア革命は、資本主義が爛熟してプロレタリア階級が国民の多数を占め、それが政権を握るという本来の社会主義革命ではなかった。資本主義がまだ成熟しきらない後進国での革命であったから、共産党独裁の非民主主義的な官僚専制国家を生み、これが国民の人権や自由を抑圧することになった。これが、民衆の反乱を引き起こし、ソ連におけるゴルバチョフ改革(ペレストロイカ)を、ひいては東欧における社会主義政権の崩壊をもたらしたというのだ。
 安東仁兵衛・現代の理論社編集長が言った。「(ソ連・東欧の実態は)一言でいえば、党と国家の一体化ということであり、国有化と中央計画経済、そして一党独裁という三位一体のシステムが、スターリン・モデルの基本構造だった。東ヨーロッパの悲劇は二重であって、この三位一体のシステムがソ連の占領軍によって上から移植され強制されたものだから、一挙に崩れた」
 田口富久治・名古屋大学教授(政治学専攻)もこう語った。「一九三〇年代にソ連で出来上がった政治経済の体制をスターリン体制と呼びますが、それが第二次大戦後、冷戦の激化の結果として、衛星国小型スターリン体制として東欧にできてゆく。要するに、そうした衛星国小型スターリン体制とか国権型社会主義とかいわれていた体制がここで崩壊したと、こういうことだと思うんです」

 「社会主義が崩壊したのではない。崩壊したのはマルクス・レーニン主義という特殊な体制だ」との見方もあった。大内秀明・東北大学教授(経済学専攻)の見解だ。
 「東が社会主義、西が資本主義であって、東の社会主義が崩壊、敗北して、西の資本主義が勝利したという、東西二分法の考え方が日本では常識かもしれないが、西ヨーロッパへ行きますと、この考え方は非常識ではないかと思うんです。西ヨーロッパでは、東を簡単に社会主義とは呼ばないで、共産主義、あるいはボルシェビズムと言っているわけでしてね。社会主義と言えば、社会民主主義を指しているわけです。いわば、マルクス・レーニン主義の方からすれば、修正主義であり、背教の徒として対立してきた社会民主主義のことを社会主義と言っているわけです。で、そういう点からいうと、いま、ソ連・東欧で起こっていることは、その共産主義、マルクス・レーニン主義の体制が崩壊し、思想も破綻したと言っていいでしょう」
                                        (二〇〇八年四月五日記)

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