もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
第132回 高い文化水準――世界の秘境・チベットへD |
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ラサの中心、マルポリの丘に立つポタラ宮(1986年5月)
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寺院の内部は極彩色だ。ラサのチョカン寺(大昭寺)
で(1986年5月)
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青海・チベットの旅を顧みて印象に残ったことの第四。それは、チベットの文化水準の高さである。
例えば、ラサのポタラ宮やその他の寺院に代表される建築技術。加えて、ポタラ宮や各寺院の壁画の類。それらは、まことに息をのむほどの見事さで、私を魅了してやまなかった。建築や美術にはまったくの素人の私の目にも、それらが極めて精巧な技術によってつくられたものであろうということぐらいはわかった。おそらく、世界的にみてもかなり水準の高いものなのではないか。それらを目の前にすると、チベット人のもつ優れた資質、技量に驚嘆せざるをえなかった。
とりわけ、ポタラ宮をこの目で見たときの興奮はいまでも忘れられない。
ポタラ宮は、ラサの中心にある小高い丘、マルポリ(赤山)の上に建てられた巨大な建造物である。かつてチベットで政治、宗教の両権を一手ににぎっていた国王であり、法王であったダライ・ラマの宮殿だ。「ポタラ」は「観世音菩薩の聖殿」の意味。このことからもわかるように、チベットでは、ダライ・ラマは観世音菩薩の化身と信じられている。
厳密に言うと、ポタラ宮はマルポリの頂上に立つというよりも、マルポリの丘の南麓を利用して建造された宮殿という感じだ。とにかく、巨大だ。東西三六〇余メートル、高さ一一七メートル。十三層で、建築面積は一三万平方メートル。「垂直のベルサイユ」とも呼ばれる。
建物の色は白とエンジ。エンジの部分は中央部分の上部で、これを紅宮という。その上には金色の屋根。金箔葺きの屋根である。ここは、歴代のダライ・ラマの霊廟のあるところ。そこには、金、銀でつくられ、さまざまな宝石をちりばめた、巨大な霊塔(チョルテン)がいくつもあり、歴代のダライ・ラマのミイラ化された遺体が納められている。
白亜の部分は、白宮と呼ばれる。そこには、ダライ・ラマの居室や執務室、会見室、それに仏殿、拝殿、僧舎、宝庫がある。いったいどのくらいの部屋があるのか見当がつかない。一説には千といわれる。そこに安置されている仏像は二十万体という説もある。通路、階段、廊下が縦横に走っていて、まるで迷路のようだ。歩くと、息切れがする。
マルポリに最初に宮殿をつくったのは、チベット初の統一国家吐蕃王朝を創設したソンツェン・ガンポだったと伝えられている。ネパールから嫁入りしてきたティツゥン王女のために建てたとも、あるいは唐から降嫁した文成公主のために建てたともいわれる。が、ソンツェン・ガンポ王の没後に破壊されてしまい、現存するポタラ宮を建立したのはダライ・ラマ五世(一六一七〜一六八二年)である。実際に造宮の指揮をとったのは宰相のサンゲ・ギャムツォ。彼は一六七九年から一七〇二年まで宰相のポストにあり、ポタラ宮建造中に没したダライ・ラマ五世の志をついでポタラ宮の建造をすすめ、一六九五年に完成させたとされる。
屋上に近い回廊には、七百枚近い壁画がある。その色彩豊かな華麗な壁画に見学者はみな思わず足を止める。その半分はポタラ宮がつくられてゆくさまを描いたもの、あと半分は造宮の指揮をとった宰相サンゲ・ギャムツォの生涯を描いたものだ。どちらも物語風で、まるで絵巻物を見るよう。造宮用の大きな岩石が川を舟で運ばれてくる光景や、作業員らしい人たちが石材や木材を背負って高所に運びあげる光景などが描かれている。
ただ、宮殿の主は不在だ。最後の主、ダライ・ラマ十四世が一九五九年にインドに亡命してしまったからである。一九六一年には中国政府から全国重点文物保護単位に指定された。いわば博物館のような存在といっていいだろう。私たちが見学した当時、実際の管理にあたっているのは僧のようだった。
ポタラ宮は、ラサの街のどこからでも観望できた。まるで、海に浮かぶ戦艦のように見えた。とくに紺碧の空の下、白亜の宮殿がきらめくような日の光に映えるさまはたとえようもない美しさであった。宮殿の正面に立つと、その巨大さ、壮観に圧倒され、「ああ、かつては世界の秘境中の秘境とされ、幾多の探検家が潜入を図っても果たされなかったラサについに足を踏み入れることができたのだ」という実感がわいてきた。
ポタラ宮だけにとどまらなかった。ラサとその周辺で出合った多くの寺院は、いずれも私を圧倒し、魅了した。例えば、チョカン寺(大昭寺)。チベットで一番古い寺で、三階建ての本堂の上部には金箔葺きの屋根が連なり、陽を浴びて燦然と光を放つ。たとえようもないほどの絢爛豪華さである。それから、デブン寺とセラ寺。どちらもチベット仏教ゲルク派(黄帽派)の四大寺院の一つで、いずれも寺院についての日本人の常識を超えた壮大な伽藍だ。ノルブリンカも挙げなくてはなるまい。ダライ・ラマの夏の離宮で、樹木に囲まれた広大な敷地の中に堂や宮殿などが展開する。
チベット第二の都市、シガツェのタシルンポ寺の威容にも圧倒された。ゲルク派の四大寺院の一つで、寺内には世界最大とされる弥勒菩薩像が安置されていた。全長二六・七メートルという。
日本では、久しく、「チベット」は後進性の代名詞であった。したがって、「チベット」という言葉から連想されるものといえば、「文化的に遅れた、貧しい、閉鎖的なへき地」というものだった。それゆえに、「△△のチベット」などという言い方が何の疑問もなくまかり通ってきた。
私自身、それまでこういう言い方を無頓着に使ってきた。例えば、新聞記者になって初の勤務地、岩手県に赴任した時、同県のことを形容するにあたって、「日本のチベット」という呼称を好んで使った。また、同県内のへき地を形容するにあたって「岩手のチベット」という言い方をした。
しかし、旅を通じてこの目で見たチベットは、世界の秘境であっても決して文化的に遅れたところではなかった。いや、むしろ、チベットの文化は、歴史的にみれば日本のそれよりは、はるかにグローバルな広がりをもっていることに気づいた。
そのことは、チベット仏教の広がりという一例からもうかがえた。すなわち、歴史的に見ると、チベット仏教が伝播した地域の範囲は、チベットを中心に南はヒマラヤ山脈の南麓のネパール、ブータン、西はインド北部、東は中国の青海・甘粛・四川・雲南の各省、北はモンゴル、中国東北部(満州)、ロシアのシベリア南部に及ぶ。
チベット仏教は、アジアでは極めて広範にして普遍的な地位を占めるとみて間違いないだろう。宗教もまた文化の一端をなすとすれば、チベット文化の広がりに目を見張らざるをえない。チベットの文化は、中国の文化、インドの文化と並んでアジア地域に大きな影響を及ぼしてきたのだ。
もはや「△△チベット」などという言い方は、何としてもやめなくてはならない。チベットの旅を続けるうちに、私は、自分のそれまでの既成概念を打ち壊された。チベットの人々に対し、自分自身の無知を深く恥じなければとの思いにかられた。
ところで、私たちは、チベットが世界に誇るに足る優れた文化の象徴ともいえる寺院が、粉々に粉砕されてしまった悲劇をこの目でみることになる。すなわち、中国全土で一九六六年から荒れ狂った文化大革命により、チベットでは多くの寺院が破壊されてしまったという事実だ。
ラサ滞在中、私はラサ東方約六〇キロにあるガンデン寺を訪れた。トラックで三時間半もかかったが、その寺は標高四三〇〇メートルの山の上に展開していた。
寺は、数十いや数百もの石造りのお堂や僧舎や仏塔で造られていた。いや、正確には、造られたことを示す跡があったというべきだろう。眺め渡したところ、伽藍の八〇から九〇%が破壊されている。激しい空爆の跡を思わせるような瓦礫の山また山。まことに無惨というか、すさまじい一語に尽きる。
高い山の上に大規模な寺院を造り上げたチベット人のエネルギーに圧倒されるとともに、その大伽藍を破壊し尽くしてしまった人間の仕業に戦慄を覚えた。これはもう狂気としか言いようがない。
ラサからネパールへ向かう途中でも、破壊された寺院にたびたび出合った。シガツェの南方にあるナルタン寺はほぼ一〇〇%破壊されていた。まるで、古代の遺跡をみるようだった。聞けば、一一五三年に建立された由緒ある寺とのことだった。
シガツェの南西に位置する町、サキャには、チベット仏教サキャ派の大本山であるサキャ寺があった。一〇七一年に建立された由緒ある寺で、南寺と北寺からなる。ところが、山の斜面に展開する北寺は、廃墟と化していた。「これはすごい。すさまじい破壊ぶりだな」。人文班のメンバーから思わず嘆声がもれた。私はといえば、あまりの惨状に声も出なかった。
寺院を破壊したのはだれか。チベット自治区政府外事弁公室によれば、文化大革命の際に紅衛兵によって破壊されたのだという。文革以前には自治区内に約二千の寺院があったが、文革でその七〇%から八〇%が破壊されたそうだ。
文化大革命は毛沢東によって起こされ、指導された革命であった。その狙いは「党内の資本主義の道を歩む実権派から権力を奪い返すこと」にあったとされる。日本でも、これを「真の革命」として礼賛、支持する知識人、政治家が少なくなかった。が、破壊されたチベットの寺院を見て、私は「文化遺産を壊滅させた文化大革命とはいったい何だったのか」と反芻したものである。
(二〇〇七年十二月十六日記)
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