もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第122回 国民に天皇リコール権――「憲法草稿評林」の衝撃

「憲法草稿評林」の所有者の小田為綱(小西豊治著「もう一つの天皇制構想」から




 いまでも鮮やかに覚えている。『憲法草稿評林』の内容を知った時の衝撃である。
 すでに述べたように、一八八〇年(明治十三年)から八一年(同十四年)にかけ、憲法起草ブームともいうべき熱っぽい創憲運動が日本列島を覆ったが、これまでに発見されたその時期の私擬憲法草案は約四十とも約五十ともいわれる。『憲法草稿評林』もこの時期に書かれたものと推定されているが、これほど数奇な運命を感じさせ、また謎に満ちたものは他にない。

 『憲法草稿評林』の発見者は、岩手大学教授だった森嘉兵衛(故人、日本経済史専攻)である。昭和四十年(一九六五年)代初め、岩手県北部の九戸地方の歴史を執筆するため史料を探していた森のもとに、千葉県市川市在住の小田清綱氏から「小田為綱文書」が持ち込まれた。小田為綱とは清綱氏の曾祖父で、九戸郡宇部村(現岩手県久慈市宇部町)出身の政治家とのふれこみであった。
 岩手の歴史に詳しい森も耳にしたことがない名前だった。が、森は「文書」の解読を進め、為綱が明治前期に青森県八戸で青年の教育にあたったり、東北総合開発のために奔走した政治家であったことを突き止める。一八九八年(明治三十一年)には衆院議員に当選するも三年後に六十二歳で病死したことも分かった。
 森は一九六七年、長男の嫁の森ノブさんと連名で「明治前期の政治思想について――小田為綱の思想を中心として」と題する論文を発表し、為綱の存在が初めて学会に知られるようになる。
 森嘉兵衛はらに「文書」の解読を進めるが、その過程で文書の中から出てきたのが『憲法草稿評林』だった。
 
 それは、十七枚つづりの和紙に毛筆でぎっしり文字が書き込まれた冊子だった。そして、その中身は、なんと、一八八〇年(明治十三年)七月に当時の立法機関であった元老院で完成した日本国憲案第三次案(最終案)に氏名不詳の人物(以下Aとする)が逐条的に批評を加え、そのうえ、やはり氏名不詳の人物(以下Bとする)が、第三次案とAの批評の両方に批評を加えたものだった。つまり、二人の人物が第三次案を批判するという形をとって、やがて制定される日本の憲法の内容はこうあるべきだと、それぞれ独自の憲法構想を展開していたのだ。

 森が受けた衝撃は大きかった。なぜなら、元老院作成の日本国憲案第三次案は一八八〇年暮れに上奏されたものの、伊藤博文、岩倉具視から「西洋各国憲法を模倣するに熱中して日本の国体人情を無視している」との反対意見が出て不採択になり、公表を禁じられた、国家の機密文書だったからである。それを、首都から遠く、東北でも奥深い辺地とされてきた土地の政治家が入手していたとは。
 森は『憲法草稿評林』の筆者を為綱その人と考え、「小田為綱の『国憲批判』」という一文を一九七四年七月三十日付の朝日新聞夕刊に寄稿した。これにより、『評林』の存在が初めて世間に明らかになった。

 この『評林』を研究し、『もう一つの天皇制構想――小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』(御茶の水書房、一九八九年)を著した日本政治思想史研究家の小西豊治氏によると、A、Bによる批評は日本国憲案第三次案の全般に及ぶが、とくに目を引くのは近代天皇制に関する大胆にして奔放な構想だという。
 後の大日本帝国憲法(明治憲法)よりはるかに民主的な内容をもっていたとされる日本国憲案第三次案にしても、政体については「天皇主権」をうたったものだった。例えば「万世一系ノ皇統ハ日本国ニテ君臨ス」(第一条)「皇帝ハ神聖ニシテ犯ス可カラス縦ヒ何事ヲ為スモ其責ニ任セス」(第二条)といった具合である。これに対し、Aはこう書く。
 「皇帝憲法を遵守セス、暴威ヲ以テ人民ノ権利ヲ圧抑スル時ハ、人民ハ全国総員投票ノ多数ヲ以テ、廃立ノ権ヲ行フコトヲ得ルコト」
 要するに、皇帝(天皇)が憲法を守らず、国民の権利を抑圧する場合は国民投票を行って退位させることができるようにしよう、というのだ。「国民に天皇リコール権を認めよ、という主張ですね」と、小西氏。
 Aはまた「帝位継承」の項で次のように書く。
 「他皇胤ニ於テモ帝位ヲ承ク可キ男統ノ者ナケレハ、代議士院ノ預撰ヲ以テ人民一般ノ投票ニヨリ、日本帝国内ニ生レ、諸権ヲ具有セル臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立シ、若クハ政体ヲ変シ(代議士院ノ起草ニテ一般人民ノ可決ニ因ル)、統領ヲ撰定スルコトヲ得」
 皇胤中男系の継承者が絶えた時には、国民投票によって国民から皇帝を選ぶか、または大統領を選べ、というのだ。
 小西氏が話す。「これまでに発掘されている自由民権期の私擬憲法草案のうち、天皇制に関して万世一系を絶ちうる可能性を示し、さらに、場合によっては共和制にしたらどうかとまで明言しているのは『憲法草稿評林』だけです」

 一方のBも負けてはいない。
 「(皇帝)自ラ法ヲ乱リ、罪科ヲ犯ス、為スヘカラサルノ所業ヲ為シテ、何ヲ以テ天下人民之レ是ヲ則ルコトヲ得ンヤ。然ラハ則チ天皇陛下ト雖、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立、后来無道ノ君ナカランコトヲ要スヘシ。然レトモ刑ハ貴ニ加フルニ忍ヒス。依リテ通常法律ヲ加フヘカラス。故ニ之ヲ責ルニ廃帝ノ法則ヲ立ツヘシ」
 皇帝が法を破り、罪を犯した場合、貴人に刑罰を加えるのは忍びがたいから、自ら責任を負って「廃帝」となるという「廃帝ノ法則」を確立すべきだ、というのである。
 
 Bは軍事についても大胆な意見を述べている。
 第三次案には「皇帝ハ陸海軍ヲ管シ便宜ニ従ツテ之ヲ派遣ス」とあった。軍隊の最高指揮権、すなわち統帥権は皇帝にあるという規定である。こうした考え方は後の大日本帝国憲法に引き継がれた。すなわち、第一一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明記された。つまり、天皇と軍部を直結させ、内閣から独立させたのだ。これが、いわゆる「統帥権の独立」である。
 これに対し、Bは第三次案の規定に真っ向から反論する。
 「皇帝ハ陸海軍及国民軍ヲ統轄シ、其軍制及用兵行軍ハ両院ノ議決ニ拠リテ之ヲ進退ス」 統帥権を皇帝でなく議会に帰属させよ、というわけである。
 「今から考えると、Bは後年の昭和軍国主義の台頭を見抜いていたと言えますね。なぜなら、この統帥権の独立こそ、戦火を次々と拡大していった軍部の錦の御旗でしたから」と、小西氏。

 A、Bの意見に共通しているのは、君主制に対し厳しい民主的コントロールを考えていたということだ。千葉卓三郎起草の「五日市憲法草案」が何よりも市民的自由権の保護に心を砕いた跡が見えることを考えると、同じ民主的内容をもつ私擬憲法草案であっても、『憲法草稿評林』は極めて異色な草案と言っていいだろう。

 ところで、『評林』の内容が明らかになるにつれて、研究者の興味をそそるようになったのは、AとBがいったいだれか、という問題だった。
 Aについては、東京教育大学名誉教授だった稲田正次(故人)が、民権結社・嚶鳴社のメンバーだった青木匡ではないかと推定し、歴史家の色川大吉氏は岩手の民権家・鈴木舎定ではないか、と述べたことがある。Bについては、小田為綱ではないかとみる研究者が多い。これに対し、小西氏はAを立憲改進党のリーダーで衆院議長も務めた島田三郎、Bを小田為綱と推定している。

 『評林』の筆者がかりに島田三郎、小田為綱だとしても、これで謎がすべて解けたわけではない。まず、当時、最高の機密文書であった日本国憲案第三次案がなぜ政府外に流出したのか。それを、島田と為綱はどのようにして入手したのか。それから、島田と為綱は一堂に会して討論し、それぞれの批評を第三次案に書き込んだのか、それとも、別々に第三次案を入手し、批評を書き加えたのか……といった疑問が次々と出てくる。『評林』の成立過程はいまなお謎だらけである。

 ともあれ、『評林』に描かれた憲法構想は結局、幻に終わった。でも、小西氏は自著の『もう一つの天皇制構想――小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』を刊行直後、こう語ったものだ。「明治憲法の発布前に、天皇制について、こんなにも自由な論議がなされていたということを、私たちはもっと知っていいのではないか」

 私は、一九八九年五月、『評林』が出てきた岩手県久慈市を訪れた。為綱の生家はすでになかったが、市立中央公民館の前庭に為綱の顕彰碑が建立されていた。一九八二年に地元顕彰会の手で建てられたとのことだった。為綱は没後八十余年にして郷土の誇る偉人として認められたのだった。

(二〇〇七年九月三日記)


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