もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第119回 気が重い旅――北朝鮮再訪⑤

朝鮮中央歴史博物館には、日本の豊臣秀吉の軍と戦った亀甲艦の模型などが陳列されていた(平壌で。左から2人目が中井写真部員、3人目が筆者)




 二回目となった今回の北朝鮮訪問は十五日間の旅だったが、滞在中、日を追って“気が重い旅”になっていった。思うように取材ができなかったためではない。日本とはあらゆる面で勝手が違う社会主義国での取材だったためでもない。では何が私の気持ちを重くさせたかといえば、行く先々で、ほとんどすべてのことが、かつての日本帝国主義の朝鮮植民地支配との関連で語られたからである。

 例えば、こうである。平壌から南へ約二百キロのケソン(開城)へ車で向かった時のことだ。道路の両側にはポプラや柳の並木が延々と続き、並木の後方には田畑が広がっていた。道路は時折、低い丘陵地帯を通過したが、丘陵には果樹園が広がっていた。それに目をやっていると、同乗していた朝鮮対外文化連絡協会のビョン参事が言った。
 「どうです、立派な果樹園でしょう。わが国が日本帝国主義に支配されていたころ、わが国には果樹園が一万ヘクタールしかありませんでした。しかし、解放後、わが国は果樹園の造成に力を入れ、いまでは三十万ヘクタールに達しています」

 途中、中学校を見学したり、休憩したりしたから、平壌からケソンまでは五時間半ほどの行程だった。だから、車中では、私とビョン参事との間で話がはずんだ。話題がこの国の教育制度に及んだ時、ビョン参事はこう切り出した。
 「日帝時代、朝鮮には大学が一つもありませんでした。中学もごくわずかでした。国民の八〇%が文字の読めない人でした。しかし、解放後、わが国は大学をつくり、中学もたくさんつくり、いまでは立派な高等教育制度が確立しています。また、解放直後から、文字を読めない者をなくす運動を行い、人民の教育水準は急速に向上しました」
 「日帝時代、朝鮮のインテリは主として中産階級の子弟でした。日帝はこの朝鮮のインテリに対しても民族差別をしました。すなわち、朝鮮のインテリが就職しようにも職がなく、かりに就職できても、日本人の賃金の五〇ないし六〇%しかもらえませんでした。だから、日帝時代の朝鮮のインテリは反帝的傾向を有していたのです」

 滞在中、私たちはこの国の代表的な名勝地、妙香山を訪れる機会があった。平壌から北へ車で約三時間。途中、車が止まった。踏切だった。しばらく停車していると、蒸気機関車(SL)が引っ張る貨物列車が通過して行った。日本ではもうほとんど見ることがないSLなので、中井写真部員にとっては格好の撮影対象だった。
 私たちは「ぜひ撮らせてほしい」と伝えたが、返ってきた回答は「鉄道関係の撮影はだめ」。しかし、中井部員のたっての要請に「一枚ならいい」ということになった。中井部員がシャッターを切っている間、ビョン参事が言った。
 「日帝時代には、わが国には蒸気機関士が四人しかいませんでした。蒸気機関士はもっぱら日本人がつとめ、朝鮮人は石炭をくべる火夫にしかなれなかったからです。解放後は、もちろん朝鮮人の蒸気機関士です」

 妙香山からの帰途、西朝鮮湾に近い安州に立ち寄った。このあたりは新興の工業都市とのことだった。
 「ここが工業都市になったのは、国の西部にも工場地帯を、という金日成主席の発意によるものです。一九七四年には化学総合工場が稼働を始め、一九七七年には火力発電所が運転を開始しました」とビョン参事。そして、こう付け加えた。「日帝時代は、河口、港に工場が集中していて、山間部にはありませんでした。が、今は山間部にもあります。工場の地方分散がはかられた結果です」

 私をしてとりわけ気を重くさせたのは、平壌の西南にある三墓里古墳を見学した時だ。これは、すでに紹介した徳興里古墳と同様に高句麗時代の古墳である。七世紀の築造というから、徳興里古墳より後代のものだ。
 三墓里古墳は三つの古墳からなっていた。私たちはその二つを見学したが、おわんを伏せたように盛り上がった古墳の内部には石でつくられた部屋があり、その壁に彩色の壁画が描かれていた。
 その壁画は部屋の四つの面に描かれていた。東側の壁の絵は青竜図、西側の壁のそれは白虎図、南側の壁のそれは朱雀図、そして北側の壁のそれは玄武図であった。いずれも想像上の動物を描いたものだそうだが、その線の確かさ、繊細さ、色の鮮やかさは見る者を引きつけてやまない。ここでも、高句麗の古墳壁画の美しさに圧倒された。
 が、目をこらすと、壁画の一部が剥落しているではないか。絵の線と色彩が素晴らしいだけに、それはいかにも無惨な印象を与えた。「これ、どうしたんですか」と案内の人に尋ねると、こんな回答が返ってきた。「解放前に日帝によって削り取られたんですよ」
 部屋の天井を見上げると、天井の中心あたりの石に亀裂があった。案内の人がそれを指さして言った。「日帝による盗掘の跡なんです。日帝はあそこからここに入ってきたんです。おそらく、金銀などの財宝が目的だったのでしょう」
 世界の美術史上の宝ともいうべき高句麗古墳壁画に加えられた、この暴挙。案内の人が言ったようにこの暴挙が果たして日本人によるものであるかどうか私には確かめようもなかったが、おそらくありうることだろうと思った。なぜなら、三墓里古墳の見学に先立つ朝鮮中央歴史博物館(平壌)の見学で、朝鮮が日本の植民地であった時代に朝鮮から多くの貴重な文化財が日本に持ち去られたことを知ったからだった。
 「ひどいことをしたものだ」。私は、私の中になんとも恥ずかしい気持ちがわき上がってくるのを感じた。それは、自分が「日本帝国主義」を支えた日本人の子孫の一人であることからくる恥ずかしさだった。

 日本が朝鮮を併合したのは一九一〇年。その後、日本による朝鮮への植民地支配は三十五年間に及び、朝鮮が日本の支配から解放されたのは、日本が第二次世界大戦で敗北した一九四五年のことだった。その解放からすでに三十二年。なのに、ほとんどすべてのことが日本による植民地支配との関連で語られたのは、この国の人々の間でかつての植民地時代の記憶がまだ生々しく生きているからだろう、と私は思った。三十余年たってもなお「日本帝国主義」への記憶が消えないということは、それはとりもなおさず、この国が「日本帝国主義」から受けた侵略と支配の傷跡がそれだけ深いということなのだろう、と私は類推した。

 今もなお生きている「日帝」――そういえば、私たちが見た歴史的な記念施設はすべて、金日成主席の日帝時代の抗日武装闘争を強調した絵や写真で埋まっていたといってよい。平壌・万景台にある革命事績館もそうだったし、平壌市内の戦勝事績館もそうだった。板門店で見学した停戦協定調印場の展示物もそうだった。
 この国が日帝のくびきから解放されるまでの間、「抗日」が、この国の国民にとって最も尊い戦いとされていたのだ。だから、一九〇九年十月二十六日、ハルビン駅頭で初代の韓国統監府統監伊藤博文を暗殺した安重根(一八七八~一九一〇年)は、この国では「民族の英雄」とされていた。戦勝事績館には、安重根の「義挙」をたたえた展示があった。韓国でも、彼は「民族の英雄」とされているそうだから、彼を抗日の英雄とみる歴史認識は朝鮮半島に生きる人たちに共通するものなのであろう。

 しかるに、日本は、一九六五年に結ばれた、朝鮮半島の唯一合法政府は韓国であるとする日韓条約に基づいて朝鮮半島の南半分に暮らす人々に対しかつての植民地支配の清算を果たしたものの、半島の北半分に暮らす人々に対してはまだ植民地支配の清算を行っていない。そればかりでない。私たちが訪朝した一九七八年当時、日朝は依然として厳しい関係にあり、国交正常化の見通しさえたっていなかった。
 この国に滞在中、私たちはチョン・ジュンギ(鄭準基)副首相と会見したが、副首相は日朝関係について「日本政府が『二つの朝鮮』でっち上げに荷担している限り、わが国と日本との国交正常化はむずかしい」と語った。日本は、米国政府が進める「二つの朝鮮」政策、つまり朝鮮の南北分断固定化政策に手を貸し、南の韓国政府との関係をますます強めている、との非難だった。「日本は朝鮮統一の妨害者、阻害者」と話す外交関係者もいた。
 
 私の二回目の北朝鮮訪問から二十九年の歳月が流れた。でも、今なお日朝国交正常化は日の目をみていない。二〇〇二年九月の小泉首相の訪朝によって両国間の正常化交渉が軌道に乗るのではないかと期待されたが、いわゆる「拉致問題」が生じたうえに、北朝鮮がミサイル発射や核実験に踏み切ったことで日本が北朝鮮に対する制裁を発動、日朝は一転して最悪の関係に陥ったままである。

(二〇〇七年八月三日記)


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