もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第3部 編集委員として
第111回 事実は小説よりも奇なり――水上父子の再会 |
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水上父子の再会を伝える朝日新聞の記事(1977年8月4日付朝刊)
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長期にわたるソ連取材から帰ったのは一九七七年(昭和五十二年)七月十一日だったが、休む暇もないまま、翌日から仕事に追われた。ソ連取材の結果を紹介する連載の準備に取りかからねばならなかったし、通常の取材もあった。
そんなある日、帰宅すると、妻がいつになくそわそわしている。「何かあったのか」と尋ねると、「話しちゃおうかしら」と、意外な返事。そして、なおしばらく決断がつかないらしく、もじもじしていたが、思い切って言っちゃおうといった風情でこう言った。「窪島さんが捜していたお父さんが見つかったんだって」
窪島さんとは、窪島誠一郎氏。しばらく前からわが家をたびたび訪れていた、東京・世田谷区成城に住む画廊経営者だった。わが家では、画家・靉光の妻で、私の義母にあたる石村キヱが、私たちと一緒に暮らしていたからである。私はそれまで窪島氏と話を交わしたことはなかったが、妻や義母の話から、窪島氏が幼いころ別れた父を捜していたことは知っていた。
「そりゃ良かった。で、見つかった父親はどんな人」と私がたたみかけると、妻は言った。「水上勉さんだって、作家の」。私は仰天した。
「こりゃ大ニュースだ」と意気込む私に妻は続けた。「窪島さんは私たちに口止めをしたの。自分としてはこのことを世間に明らかにしたくない。岩垂さんは新聞記者だから、彼には黙っていてほしい。知れば記事にするだろうから、と」。妻と義母は、窪島氏に頼まれて私に隠していたというのだ。窪島氏が妻と義母に思わず口をすべらせたのは、長年にわたって父を捜し続け、ついにめぐりあえたことがよほどうれしかったからにちがいないと私はその時、思った。
こんな大ニュースを放っておく手はない。私は窪島氏を訪ね、取材させてほしいと頼んだ。が、窪島氏は「相手のあることだし、その人の社会的地位も考えなくてはならないから」と固持し続けた。やむなく、私は「書かない」を条件に、窪島氏の話を聞いた。だから、メモはいっさい取らなかった(窪島氏と別れた後、私は喫茶店に飛び込み、記憶していたことを一気にメモ帳に書き留めた)。
窪島氏によると――十三、四歳のころ、自分が両親に似ていないことに気づいた。「自分は両親の子ではないのではないか」。両親に尋ねると、両親は笑ってとりあわなかった。
そのころ、両親は靴修理をしていたが、生活は苦しかった。窪島氏は高校を出ると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従業員、店員などをしながら家計を助けるとともに、お金を貯めた。それをもとに小さな喫茶店を開いた。
この間、両親への“疑い”が年ごとに深まり、二十六歳の時、再び両親に迫った。と、意外な答えが戻ってきた。「私たちは戦前、世田谷の明大前で靴修理屋をやり、二階を下宿にしていた。そこに山下義正という学生がいて、一九四三年、孤児をもらったといって二歳の赤ちゃんを連れてきた。私たちには子どもがいなかったので、預かって育てた。それがお前だよ」。「山下」という人に会えば、父の手がかりがつかめるかもしれない。こうして、「山下」さん捜しが始まった。
宮城県石巻市へ。“両親”から「戦災に遭ったので、石巻に疎開していた」と聞かされていたからだ。そこで偶然、“両親”がやっていた靴修理屋の隣の洋服屋につとめていた人に出会った。その人が話した。「君のお父さんは山下義正さんだと思う」。以来、窪島氏は山下さんを実の父と思うようになる。
次いで、両親の家の二階に下宿していた学生が群馬県前橋に健在であることを突き止めた。その人が教えてくれた。「山下さんが君のお父さんだと思う。しかし、山下さんは学徒出陣で出征し、戦死したと聞いている。確か明大生で、静岡県磐田市の出身だったはず」。明大に問い合わせると、確かに戦死していた。探索はここで途切れた。
それから四年ほどたった今年(一九七七年)二月、窪島氏は父親の墓参りをしたいと思い立ち、「磐田市」を手がかりに訪ねていった。「山下姓」がいっぱいあった。電話帳を頼りに捜し、十数軒目に山下義正さんの実家を突き止めた。が、義正さんの父親は言った。「人違いでしょう。義正には男の子はいませんでしたから」
でも、あきらめきれなかった。義正さんの妻静香さんが同県富士市に健在であることを知った。電話を入れると、受話器の向こうからこんな声が響いてきた。
「凌ちゃんかえ。あんた生きてたの。あんたのお父さんは立派に生きてるよ。作家の水上勉さんなんだよ」
窪島氏にとっては、とても信じられない結末だった。
凌とは窪島氏の本名だった。静香さんが窪島氏に語ったところによると、一九四一年ごろ、東京・東中野のアパートに義正さんと世帯をもっていた。隣室に水上勉、加藤益子夫妻がいた。水上氏は失業中で、肺結核を患い、よく血を吐いていた。まだ無名の時代で、酒を飲んでは売れない原稿を書いていた。家計は益子さんの洋裁に頼っていたようだが、その困窮ぶりは「赤貧洗うがごとし」だった。
そこへ凌ちゃんが生まれた。みるにみかねた静香さんは、これでは子どもがかわいそうだと、どこかへ預けるよう勧めた。が、水上氏はウンと言わない。そこで、水上氏が外出中に益子さんと一緒に凌ちゃんを連れ出し、義正さんが以前下宿をしていた靴修理屋の夫婦に預けた。
明大前一帯は空襲で焼け野原になったので、凌ちゃんはてっきり死んだものとばかり思っていた。後になって、水上氏には気の毒なことをしたと後悔していた――
こうして、父子はこの年六月二十九日、軽井沢の水上氏の別荘で対面する。三十余年ぶりの再会であった。水上氏は五十八歳、窪島氏は三十五歳。
窪島氏の話を聞きながら、私は興奮した。窪島氏の約二十年にわたる父親捜しが実にドラマチックだったからだ。ついに捜しあてた父親が著名な作家だっただけではない。なんと、窪島氏は水上作品の熱心な愛読者だったのだ。とくに水上氏の代表作の一つ『飢餓海峡』に出てくる、北海道の雷電岬の描写に感激し、現地を訪ねた。そして、その光景に魅せられて詩をつくり、その詩集に『雷電』と名づけたほどだ。それに、窪島氏の結婚相手、紀子さんは、なんと雷電海岸の出身だった。
そればかりでない。水上氏が身障者のわが子のことを書いた『くるま椅子の歌』に感銘し、喫茶店の売上金を身障者支援運動に寄付したこともあった。
まだある。窪島氏の家は、水上氏の邸宅から歩いて五分とかからないところだった。互いに父子と知らないまま、父子は同じ町内に住んでいたのである。
なんとも不思議極まる因縁に、私は「事実は小説よりも奇なり」と思わざるをえなかった。
しかし、これが記事にできないのだ。なんとももどかしかったが、約束を守って沈黙するほかなかった。ところが、である。七月末、窪島氏から「書いてもらってもかまわない」と連絡があった。読売新聞が察知して取材を始めたからで、「どうせ書かれるなら、私としては、あなたに書いてもらいたいと思う」とのことだった。もっとも、「書くにあたっては水上氏の了解をとってほしい」という。
八月二日、窪島氏とともに、ホテルオークラで原稿執筆中の水上氏を訪ねた。が、水上氏は「ぼくにとっては喜ばしいめぐりあいだが、世間にはもっともっと悲痛な戦後史を、未解決のままにしておられる方もあるかと思うと、大騒ぎしてもらうのは恥ずかしい」と、頑として報道されることを拒んだ。
思いあまった私は伊藤邦男・社会部長から説得してもらうことにし、二人して再びホテルオークラを訪ねた。部長からの懇請に水上氏もついに掲載を条件付きでOKしたが、その条件とは「ぼくから新聞社に売り込んだのではない、とわかるような記事にすること。それには、記事の筆者名を明記することと、筆者がなぜこの記事を書いたのか自ら明らかにすること」というものだった。
かくして、私の原稿は八月四日付の朝日新聞朝刊社会面に載った。トップの扱いで「捜しあてた父は水上勉氏」「“孤児の一念”戦災の空白を克服」といった見出しが躍っていた。末尾には「窪島さんは(こんどのことが)人びとに知られることをおそれていたが、私はあえて社会に明らかにする道を選んだ。いまなお、戦争直後に離れ離れになった肉親を捜している人びとに、一つの希望を与えることになるのでは、と思ったからである」との私のコメントがつけられていた。
窪島氏は、その後、長野県上田市に夭折した画家の作品を集めた「信濃デッサン館」、戦没画学生の作品を展示した「無言館」を開設し、全国的な注目を浴びる。また、作家としても知られるようになる。
わが家との縁も途絶えず、今年六月二十一日から、東京・六本木の俳優座劇場で、窪島氏原作の演劇『眼のある風景―夢しぐれ東長崎バイフー寮―』が、劇団文化座の手で上演される。靉光を主人公とした芝居で、靉光生誕100年を記念する催しの一つである。
(二〇〇七年五月五日記)
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