島を去る日、島の人たちが集まってくれた。島の住人は全部で26人だが、2人が島外に出ていて
24人だった(1971年6月25日。筆者撮す)
一九七二年日本復帰を内容とする「沖縄返還協定」が、一九七一年(昭和四十六年)六月十七日、日米両国政府によって調印された。沖縄の日本復帰が正式に決まったのだ。
その日、私は沖縄の那覇市にいた。市内を巡りながら、私は考えた。「沖縄の人たちはこの返還協定をどう受け止めているだろうか」と。
報道機関はさまざまな形、切り口でそれを伝えるだろう。だから、私は、それらとはちょっと違った切り口で伝えたい。そう考えているうち、脳裏にひらめいたのが、「沖縄には離島が多い。その離島の人たちの受け止め方を書いてみよう。それも、最も人口の少ない離島の人たちの受け止め方を」という思いつきだった。
琉球政府によると、沖縄は六十近い島々から成る。無人島もあるが、有人島のうちで一番住民の少ないのは、多良間村(たらまそん)水納(みんな)島だという。「そうだ。そこへ行ってみよう」。地図を見ると、宮古諸島の島の一つで、東シナ海に浮かぶ絶海の孤島だ。
六月二十三日、私は、当時、那覇に在住していたフリーカメラマンの吉岡攻氏とともに那覇から飛行機で宮古島へ飛んだ。約一時間。そこで、沖縄タイムス宮古支局の比嘉康文支局長を訪ね、水納島への案内を頼んだ。
私たち三人は、3トンのポンポン蒸気船を雇った。水納島への定期船はない。だから、同島を目指す人は自ら交通手段を確保せねばならなかった。それで宮古港を出航、西へ向かった。
五時間ほど海上を走ると、紺青の大洋に皿をふせたような平坦な島が見えてきた。港らしきものは見当たらない。海が浅くなってきたので、沖で船を降り、海の中を歩いて島に上陸した。海辺に低い丘があり、それを下ると、集落があった。そこから、子どもが飛び出してきた。
水納島は周囲約三キロ。大海原に浮かぶケシ粒ほどの大きさ。島の一番高いところでも海面から六メートルほど。大樹はなく、アダン、ソテツ、ヤラブの木が生い茂る。集落は全部で五世帯二十六人。それも長老の宮国仙助さん(六四歳)を中心にしてすべて親戚関係にある。小学校の分校があり、児童は八人。もちろん、複式学級だ。先生は二人。
島の生活はコメを除いてすべて自給自足。畑はほとんどない。平地はあるのだが、砂地で農業には向かない。だから、収入源は家畜だ。内訳は牛十八頭、豚四頭、山羊百五十頭、鶏五十羽。
コメをはじめとする日用品は、四キロ離れた多良間島までサバニ(くり舟)で買い出しに行く。島への郵便物もこの時、郵便局で受け取る。が、海が荒れると、二、三週間も島に閉じ込められる。
一番の悩みは水である。頼りは雨水だが、このあたりは雨が少ないので慢性的な水不足という。「今年はとくにひどい。ここ七カ月も雨が降らない。村役場が多良間島から十日にいっぺんほど船で島に水を運んでくるんだが、これも途絶えがちで。いつまでこの炎天は続くんでしょうね」。小学校の教師、新垣武夫さん(三九歳)は白熱の太陽がギラギラ輝く空を仰いで嘆いた。
住民の娯楽といえば、ラジオとテレビだけ。そのテレビも小学校備え付けの発電機を利用しているので、日没時から午後十時までしか観られない。そのうえ、ひどく映りが悪い。ニュース番組は本土の半日遅れだ。もちろん、新聞の配達などない。
沖縄の日本復帰もラジオで知った。新垣さんは教室で子どもたちにそのことを話して聞かせたが、特に変わった反応はなかったという。「日本復帰といったって特に生活が変わるわけではありませんから、子どもたちにとっては実感がわかないんですね。これは大人も同じで、返還協定には関心がないですね」と新垣さん。
島の区長、宮国岩松さん(五五歳)も言った。「復帰はいいことなんでしょうねえ」。まるで他人事のような口ぶり。そこには高揚した気分も感激もなかった。
私たちは小学校の教室を借り、机を並べてベッド代わりにし、ここに二泊した。夜が更けても暑いので、野外で寝ころんでいると、夜空の星座がまことに見事で、満天の星空とは本来、こんなに美しいものかと思い知らされた。
食事は新垣さん宅でごちそうになった。米飯に汁、それに、おかずが一皿か二皿といった献立て。汁の具は島の周辺で獲ってきた魚で、塩味だった。おかずも魚の刺身が多かった。
島の人たちと親しくなるにつれて、この人たちがヤマトンチュ(本土人)に対する不信感を秘めていることを知った。戸外で泡盛を飲みかわして宴が深夜に及んだ時のことだ。新垣さんが突然、私たちに尋ねてきた。「先ごろ、本土の政治家が、沖縄を甘やかすな、と発言しましたね。これ、本土の人たちの本音ですか」
いつも穏やかで、悠々たる物腰の宮国仙助さんも、太平洋戦争中に島にやってきた日本軍の指導者の横暴さについて語った時だけは、言葉を荒げた。「おれ、今度あいつに会ったらただではおかぬぞ」。よほど我慢ならない仕打ちをうけたらしかった。
沖縄の日本復帰に無関心な島の人たちも、話が戦争中のことに及ぶと、さながら昨日のことのように能弁になった。
沖縄戦に先立つ一九四五年(昭和二十年)一月、米軍機四機が島に襲来、機銃掃射で住民四人が亡くなった。仙助さんはその時、島の区長で、住民たちを避難させている最中の出来事だった。自身は海辺の岩かげに隠れて助かった。その時の恐怖感が、いまでも時折、甦ってくるという。「戦争は怖い。再び戦争にはあいたくない。私ら老人が願うことといえば、島の子孫をいつまでも平和に暮らさせたいということだよ」
島を去る日、仙助さんは、私たちに一首を寄せた。
「人よ皆 神の子として幸せに 生きるのみこそ 平和なりけり」
とにかく、平和のうちに暮らしたい、という島の人たちのひたむきな願いが込められているように私には思えた。この孤島に暮らす人たちの心情は、沖縄にあっては特異なものだろうか。私には、すべての沖縄の人たちに共通する「沖縄のこころ」ではないか、と思えたのである。
水納島探訪記は、六月二十七日付の朝日新聞朝刊に掲載された。
その後、沖縄は一九七二年五月十五日に日本に復帰し、沖縄県となる。二十七年間にわたる異民族支配に終止符がうたれた。
それから二十年後の一九九二年(平成四年)四月、私は比嘉康文氏(比嘉氏はその時、沖縄タイムス本社勤務となっていた)と再び水納島を訪れた。日本復帰二十年でこの島がどう変わったかかを知りたかったからである。
沖縄シリーズを終えるにあたって、一九七三年(昭和四十八年)五月十五日付の朝日新聞朝刊に載った世論調査結果を紹介しておきたい。これは、朝日新聞社が沖縄の日本復帰一周年にあたって、沖縄県民を対象に「復帰一周年をどんな気持ちで迎えたか」を探ったものである。
それによると、「復帰して一年たちますが、復帰は期待通りでしたか。それとも期待はずれでしたか」との問いに「期待通り」は一五%、「期待はずれ」が六二%、「その他の答」が一七%、「答えない」が六%だった。その記事は「手にした『本土復帰』は、沖縄の人たちにとって、予想に反してきびしいものだった」とコメントしている。
世論調査は、日米安保条約や米軍基地についても問うている。安保条約が日本の安全を守るために「必要と思う」は三〇%、「そうは思わない」が二六%。米軍基地のあり方に「不安を感ずる」は六三%、「不安を感じない」が二三%。沖縄の米軍基地に「核があると思う」は六二%にのぼった。
ところで、私の“沖縄病”はますます進み、その後もたびたび沖縄を訪れた。そして、ついに比嘉康文氏と共編で沖縄についての入門書『沖縄入門』(同時代社)を著すまでに立ち至った。一九九三年のことである。
(二〇〇六年六月二十九日記)
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