もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第67回 ベトナム戦争の余波は王子にも


角材や投石で警官隊と衝突する学生(米軍王子キャンプ正門前)=株式会社朝日ソノラマ
社発行の「朝日ソノラマ」(1968年5月号)から




 ベトナム戦争の激化は、日本にさまざまな余波をもたらした。一九六七年(昭和四十二年) 十月から、わが国で連続的に起きた第一次羽田事件、老エスペランチストの焼身自殺、横 須賀港に停泊中の米空母イントレピッドからの米兵脱走、米原子力空母エンタープライズの 佐世保入港とそれへの抗議行動……といった事件や出来事は、いずれもベトナム戦争と深 くかかわっていた。
 余波はこれらの事件や出来事にとどまらなかった。一九六八年早々、王子野戦病院問題 が持ち上がる。佐世保でのエンタープライズ寄港騒ぎのほとぼりがまだ冷めやらない一月二 十四日、東京都北区の小林正千代区長は区議会で「米軍側から、北区内の米軍王子キャン プに、近くベトナム傷病兵用の野戦病院を開設するとの連絡を受けた」と発表したからであ る。
 当時、米軍王子キャンプは北区十条台にあり、広さは約十二万二千平方メートル。米陸軍 極東地図局があったが、これが一九六六年にハワイに移ってからは、空き家となっていた。 米軍側の説明では、そこを改装し、そこに埼玉県入間市のジョンソン基地にある米陸軍第七 野戦病院の一部が移転してくるのだという。ベッド数は三百五十から四百。二月半ばごろま でに移転を終え、三月初めに開院の予定との説明だったという。
 東京二十三区内に米軍の野戦病院を設置されるのは初めてだった。当時、日本各地に米 軍の野戦病院があり、ベトナム戦線からそこへ運ばれてくる傷病米兵は月に四千人以上に のぼる、といわれていた。戦争の激化でその数が増え、これに対処するため米軍としては野 戦病院の増設を図ったものと思われる。
 北区としては、もともと極東地図局が移転した後の王子キャンプを区に返還してほしいと望 んでいた。六七年十二月には、区議会が返還要求を決議した。そこへ、野戦病院が来る。な にしろ、王子は住宅の密集地帯であるうえ、キャンプの近くには中学校、女子高校、大学な どの学園地区があった。それだけに、社会党、共産党、区労連などの革新団体からはもちろ ん、保守系区議、町内会、PTA、商店連合会などからも反対の声が上がった。「野戦病院が 設置されると、汚水、汚物の処理、伝染病などの問題が起きないだろうか。入院米兵の外出 で風紀上の問題も派生しかねない」というわけである。
 米軍野戦病院設置が北区民ならびに都民からいかに歓迎されなかったかは、三月二十一 日に都議会が超党派で病院廃止運動を行うと決めたことからもうかがえる。

 この問題は、「ベトナム反戦」を掲げて佐藤首相の南ベトナム訪問阻止(第一次羽田事 件)、同首相の米国訪問阻止(第二次羽田事件)、米原子力空母エンタープライズの佐世保 入港阻止といった過激な実力闘争を繰り返してきた反代々木系学生にとって、格好の標的と なった。北区長の開設発表直後から、王子キャンプ周辺で反代々木系学生による開設反対 デモが続発する。
 二月二十日夜には、北区労連が主催した反対集会に反代々木系学生約九百人が合流 し、うちヘルメットをかぶった約四百人が警備の機動隊に角材をふるってぶつかったり、投石 を行い、三十六人が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
 三月八日夜には、いくつもの反代々木系学生集団が、それぞれ王子キャンプに向けてデモ を始め、各所で警備の機動隊と衝突した。東十条駅を降りた一団約二百人は王子キャンプ 東側のコンクリート壁を乗り越えてキャンプ内への突入を図った。キャンプ内に待機していた 警官に阻まれると、角材でコンクリート壁を破壊した。王子駅前で集会を開いた後にデモを 始めた別の一団約四百人は、都電の軌道内をデモ行進し、都電もストップ。王子本町交差 点付近では、学生約六百人が機動隊に投石を繰り返し、機動隊が学生たちの排除にかかる と、学生たちは交差点付近に集まった数千人の群衆の中に逃げ込み、そこから投石を続け た。群衆の一部も「ポリ公帰れ」と機動隊にくってかかり、交差点は混雑を極めた。「王子 学 生デモ大荒れ」。翌朝の新聞は社会面トップで報じた。
 三月三十一日には、区内の公園と神社の二カ所で野戦病院に反対する市民集会が開か れた。公園で開かれた集会には約五百人が集まったが、主婦が多かった。神社で開かれた 集会は町内会の主催で、商店主、主婦、子どもら約三百人が加わった。
 四月一日夜には、反代々木系学生約七百人が王子本町交差点付近で機動隊と衝突、パ トカー一台が学生に放火されて炎上、さらに交番が襲われ、キャビネットが持ち出されて中 の書類が焼かれた。この日も数千人の群衆が集まったため、機動隊は催涙ガスを使って群 衆整理にあたった。この夜の衝突で百五人が暴力行為などの現行犯で逮捕され、警官、学 生ら約二百五十人が負傷。商店街や住宅にもガラスが壊されるなどの被害が出た。
 四月十五日夜には、東京護憲連合が同区内の公園に約九百人を集めて「野戦病院反対 都民総決起集会」を開き、王子キャンプに向けてデモ行進をしたが、反代々木系学生約七 百人がこれに合流し、キャンプ正面ゲート前で激しく投石し、角材をもってゲートに突っ込ん だ。数千人の群衆がこれを取り巻き、一部が投石に加わった。警視庁はこれを実力で排除 したが、学生三十八人が公務執行妨害などで逮捕された。この夜の衝突による負傷者は四 十九人。内訳は警官十七人、学生八人、一般人二十四人。 

 地元住民、革新団体、反代々木系学生らの反対にもかかわらず、米軍側は四月十五日ま でに王子キャンプへの野戦病院の移転を完了した。

 長崎県佐世保市で展開された米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争を取材中にけ がをして佐世保労災病院に入院中だった私が、退院して埼玉の自宅に帰ったのは一月二十 七日。五日間自宅で療養し、会社に出勤したのは二月二日。その私を待っていたのは王子 野戦病院問題だった。
 反代々木系学生が王子キャンプに向けてデモを繰り返すたびに、私は王子へ向かった。こ のころの私は、まだ頭部の裂傷が完治せず、頭部に包帯を巻いたままで、東京労災病院に 通院中だった。が、反戦運動は私の取材分野であったし、それに、野戦病院開設をめぐって 何が起きるかをこの目できちんと見届けねば、との思いが強かったためだ。
 もちろん、警視庁クラブ詰めの記者やサツまわり(警察まわり)など多数の記者が反代々 木系学生デモの取材にあたり、私もその一員にすぎなかったが。
 王子キャンプ周辺は住宅の密集地帯だったが、それも軒の低い平屋建てや二階建てが多 かった。路地は狭く、加えて、それらが入り組んでいた。まるで迷路のようだった。夜になる と、王子キャンプの正面ゲート前でこうこうとライトが照らされている以外は、一帯には街灯も 少なく、暗かった。そこで、角材と石をもった学生集団と、投石よけのジュラルミン製楯と催涙 ガス銃を携えた機動隊との衝突、攻防が繰り返された。それは、まるで闇夜での“市街戦”だ った。催涙ガスのにおいが路地にただよい、目がちかちかして痛んだ。
 学生集団が突進する。すると、機動隊がそれを阻もうと前進する。すると、学生集団が狭い 路地を一目散に逃げ回る。逃げ場を失った学生の一部は民家の敷地内に飛び込み、その 家の屋根によじ登って機動隊の追跡から逃れようとする。中には、屋根から屋根へと飛び移 る学生もいた。
 佐世保で機動隊による警棒の乱打をあびて負傷したばかりの私は、機動隊の動きにすっ かり過敏になっていた。「二度とけがをしたくない」。だから、機動隊が学生集団の排除にか かかる気配をみせると、私はいちはやくその場から離れ、安全な場所に移ろうと心がけた。 が、路地が行き止まりだったりして、逃げるところを失ったこともあった。そんな時は、申し訳 ないなと思いながらも、やむなく、民家の屋根に逃れた。頭部の包帯を手で押さえつつ屋根 から屋根に飛び移りながら、「これじゃあ、まるでネズミ小僧次郎吉だな」と苦笑したものだ。  
 それにしても、米兵がたたずむ米軍施設の前で、日本人同士が激しく争い、互いに傷つけ 合うのを見るのはつらかった。なにか、とても悲しかった。

 米軍は、一九六九年十一月、王子野戦病院を閉鎖した。ベトナム戦争の縮小にともない、 日本に運ばれてくる傷病兵が減ったためだろう、との見方が日本側には強かった。
 これにより、米軍王子野戦病院問題は解決し、王子の街は平穏を取り戻した。が、私は、 問題はほんとうに解決したんだろうか、との思いをいまなお禁じ得ない。というのも、ベトナム 戦争終結後も、いや、東西冷戦が終わっても、日本には引き続き米軍基地が存続し、周辺 住民との間で摩擦を起こし続けているからだ。二〇〇五年からは、米国政府の世界戦略か ら在日米軍の再編問題が浮上し、沖縄、岩國、神奈川などの基地周辺住民や関係自治体 に「米軍基地の機能が強化され、基地公害がいっそう増すのではないか」との懸念を生じさ せている。
 王子野戦病院問題は、決して遠い過去のものではないのだ。     (二〇〇六年二月九 日記)





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