もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第63回 米空母イントレピットからの脱走兵 


ベ平連のデモ(東京都内で。小林やすさん提供)




 一九六七年(昭和四十二年)十一月十三日午後五時すぎ。東京・神田一ツ橋の学士会館 の一室には、緊迫感と熱気がみなぎっていた。一室を埋めていたのは内外の報道陣で、ざ っと百二十人。「横須賀に停泊していた米空母から、四人の米兵がベトナム戦争に反対して 脱走したので、その件について発表します」というべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)か らの連絡で急きょ集まってきた記者やカメラマンだった。

 会見に現れたのはべ平連代表で作家の小田実、同志社大教授の鶴見俊輔、評論家の栗 原幸夫、べ平連事務局長の吉川勇一の各氏ら。
 べ平連によると、北ベトナム爆撃作戦に参加していた米空母イントレピット(四、二〇〇〇ト ン)が十月十七日に横須賀に入港、同二十四日出港したが、この間に四人の航空兵が同艦 から脱走した。四人が最初に接触したのは日本人のベトナム反戦運動関係者だったが、そ の人からべ平連に連絡があり、べ平連のメンバーが東京で四人に会ったという。

 「四人の米兵がベトナム戦争に反対し、言葉でなく行動で示した動機を映画を通じて説明し ます」。早口の小田氏がこうまくしたてると、会場にセットされていた映写機が回り始めた。に わかづくりのスクリーンにモノクロの画面が写しだされた。
 まず、小田氏が英字紙の紙面を示す。十月三十一日に行われた故吉田茂・元首相の国葬 の写真が掲載されているから翌十一月一日付の紙面と思われた。続いて胸に名札をつけた 四人の米兵の姿。みな気楽な服装だ。脱走後に軍服を破棄したのだという。いずれも十九 歳から二十歳。そのせいか、まだあどけなさが残る顔つきで、目をしきりにしばたたく。みる からに不安そうだ。
 画面に合わせて録音テープが回る。四人はそれぞれ声明文を読み上げる。「ベトナム戦争 を支持する側に身をおいたことは道徳に反し、まったく非人間的だったと思う」「私はアメリカ 人。二度と戻れないだろうと思えば、友人や家族から離れることは心痛む」……
 録音は小田氏との一問一答に移る。「後どのくらいで除隊になるのか」との問いに「二年二 カ月」「八カ月」などと答える。四人の背後には、撮影場所をさとられないためにか、暗幕が 張りめぐらされていた。
 フィルムは約四十分。会場が明るくなると、すかさず報道陣から質問が飛んだ。「映画とテ ープは本物か」と外国人記者。小田氏はじろりとにらみつけて「本物だ」と一言。「四人は日 本にいるのか」との問いには「知らない」。「当局が四人を引き渡せと言ってきたらどうするの か」との質問には「日本国憲法の精神に基づいて行動するまでだ」と切りかえす。
 矢継ぎ早の、しかも、しつような質問に、小田氏らの回答は極めて慎重かつ細心だった。な にしろ、米軍から集団脱走した米兵を、政治亡命を認めない日本で、日本人がかくまうなん てことは前例のないことであり、したがって米軍や日本の捜査当局から引き渡し要求がある かもしれず、脱走米兵の身の安全を最優先しなければならないべ平連としては、慎重を期さ ざるをえなかったということだろう。鶴見氏が言った。「小田は、このことに生命をかけている んだ」

 脱走した四人はどこにかくまわれているのか。さまざまな憶測がマスコミで渦巻く中、十一 月二十一日、四人が突然、ソ連のモスクワ・テレビに登場し、世界に衝撃を与える。四人は ソ連人のインタビューに「われわれは平和運動をするためにどこか中立国へ行く途中、ソ連 の援助を期待してここにきた」と述べた。
 「彼らはいったいどんなルートでソ連に渡ったのか」。マスコミは、今度はそのルートの取材 に追われたが、十一月十一日に横浜を出港し、十三日にソ連のナホトカに入港したソ連船 「バイカル号」に乗船したのでは、との観測が強かった。とすれば、当然、彼らの乗船を手助 けした人たちがいるはず。それはだれなのか、どんな組織がかかわっているのか。マスコミ はまたその解明に躍起となったが、ついに確たることは分からずじまいだった。 
 その後、四人は十二月二十九日、スウェーデンのストックホルムに到着し、三度世界を驚 かす。

 この脱走兵援助により、べ平連はがぜん、有名になった。脱走兵援助に関する報道を通じ て「べ平連」の名前が人々の間に広く浸透したからだった。「ベヘーレン」という耳慣れない略 称も人々の関心を呼んだ一因だったろう。
 べ平連が結成されたのは一九六五年四月二十四日のことだ。米軍機による北ベトナムへ の爆撃(北爆)が始まり、ベトナム戦争が一段とエスカレーションした同年二月七日直後のこ とである。
 この日、小田実、鶴見俊輔、作家の開高健各氏らの呼びかけで、ベトナムの平和を要求す る人たち約千五百人が東京・清水谷公園に集まり、デモ行進の後、発足した。この日、参加 者に配られたパンフレットには小田氏が次のような一文を寄せていたが、それがべ平連の 性格を端的に語っていた。
 「私たちは、ふつうの市民です。ふつうの市民とは、会社員がいて、小学校の先生がいて、 新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している青年がいて、 つまりこのパンフレットを読むあなた自身がいて……その私たちが言いたいことはただ一 つ、ベトナムに平和を!」
 発足時は「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」と名乗った。やがて「ベトナムに平和 を!市民連合」と改める。
 スローガンは三つ。「ベトナムに平和を!」「ベトナムをベトナム人の手に!」「日本政府は 戦争に協力するな!」。これに賛同する人ならだれでも参加できるとされた。したがって、会 員制度ではなかったし、規約も会費もなかった。「おれがべ平連だと名乗れば、それでもうべ 平連なんですよ」「ベ平連は組織というよりは運動体です」。べ平連関係者は当時、取材に行 った私にそう語ったものだ。最盛期には、全国にべ平連を名乗るグループが四百もあった。
 事務局長だった吉川勇一氏は、その著『市民運動の宿題』(一九九一年、思想の科学社) の中で、こう書いている。
 「参加者の思想的な立場は、マルクス主義、プラグマチズム、アナーキズム、社会民主主 義、自由主義、戦闘的キリスト教、良心的日和見主義(?)、大衆運動主義と実にさまざまだ った。職業や専門分野も、作家、哲学者、数学者、ジャーナリスト、弁護士、高校の歴史教 師、失業者、学生といった具合で、そういう顔ぶれがベトナム戦争やデモに限らず、森羅万 象を取り上げて、甲論乙駁した」

 それまで大衆運動を取材対象としてきた者の目には、べ平連の登場は実に新鮮に映っ た。
まず、「市民」の連合、という点だった。それまでの平和運動は、労働者を主体とする労働組 合や民主団体が中心。それにひきかえ、べ平連は個々の市民が主体の運動だった。そのこ とが、従来の平和運動とは基本的に違うという印象を与え、新鮮さを感じさせたのだった。
 そもそも、「市民」という言葉そのものが、このころ、極めて新鮮だった。当時は、「市民」と いう呼称がまだ日本社会に定着しておらず、社会の構成員をさす言葉としては専ら「庶民」 「住民」「人民」「民衆」などが使われていた。そして、「市民」に対しては、一般的に西欧の社 会を形成している人々、つまり、貴族、僧侶など封建社会の支配層を打倒した商人、企業 家、職人らのことをさすと理解されていた。
 こうした歴史的経緯から、「市民」とは、権力とか権威から独立し、あくまでも個人の自由な 判断に基づいた自主的な行動を尊重する人々のことだ、とイメージされていた。が、日本は ブルジョア革命(市民革命)を経験していない。したがって、「市民」は不在とされていたわけ である。
 なのに、「市民の連合」を掲げる平和運動体が登場した。だから、「新しい運動」という印象 を与えた。日本でも、経済の高度成長にともない、地域や職場を基盤とする共同体から自立 した人々による「市民社会」が六〇年代になってようやく形成されつつあったということだろ う。

 運動のスタイルも、それまでの平和団体とは全く違っていた。
 まず、米国のニューヨーク・タイムス紙に一ページのベトナム反戦広告を掲載(六五年四 月)。ついで、戦争と平和を考える徹夜討論会(同年八月)。同年九月からは、毎月一回の定 例デモを始めた。その後も、米国の平和活動家を招いて日米市民会議を開いたり、フランス の哲学者サルトル、ボーボワールを交えて反戦討論会を開いたり、米国の歌手、ジョーン・ バエズを招いて反戦の夕べを開いたり……。そして、米艦からの脱走兵援助。次々に打ち 出されたこうした斬新な発想と行動が世間の度肝を抜いた。
 それまでの労組や平和団体による平和運動は、まず、指導部が方針を決め、その実施の ために組織や団体の構成員を動員し、構成員は指導部の指示に基づいて行動するというパ ターンだった。これだと、自ずと、いわゆる「スケジュール闘争」になる。これに対し、べ平連 の運動は、個人が自分の判断で自主的に参加するという行き方。こうした多様な市民個人 の自発性と創意、自主性に基づく運動だったからこそ、世間の度肝を抜く斬新な運動スタイ ルを生み出し得たのだと私は思う。 

 ともあれ、この年十一月は十一日にエスペランチスト、由比忠之進さんの焼身自殺、翌十 二日は反代々木系学生が佐藤首相訪米阻止を狙って引き起こした第二次羽田事件、そして 十三日には、イントレピットから米兵が脱走したとのべ平連の発表。どれもベトナム戦争がら み。私にとっては、まさに息つくひまもない「激動の三日間」だった。 (二〇〇六年一月七日 記)              





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