もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
32歳ごろの靉光(1938年ごろ、東京で)
靉光の代表作の一つ、「眼のある風景」(東京国立近代美術館所蔵)
報道に携わる者として原爆問題にかかわってゆきたいと思い立った動機は、ほかにもある。それ
は、私事に関することだが、結婚を機にはからずも私の義父となったある画家が、ある意味で「原爆犠牲者」と言えるのではないか、との思いが私の中で強くなっていたからである。
ある画家とは靉光(あいみつ、本名・石村日郎)である。
三省堂発行の『コンサイス日本人名辞典』(改定新版)にはこうある。
「1907〜46(明治40〜昭和21)昭和期の洋画家。出生地 広島県。1924年(大正13)大阪に出て天彩画塾に学ぶ。翌年上京、太平洋画会研究所に入り、井上長三郎・麻生三郎らと知る。'26二科展に入選。翌年<一九三〇年協会展>に入選、同協会奨励賞受賞。『洋傘に倚る少女』つづいて『キリスト』『盲目の音楽家』など一連の前衛的作品を描いた。'34(昭和9)上海を中心に中国旅行をし、東洋画へのふかい関心を示す。'35「シシ」で中央美術展賞をうけ、しばらくライオンのモチーフに執心し、'37「ライオン」が独立美術展に入選。このころからシュールレアリズム的画風をつよめ、'
38「眼のある風景」が独立美術展に入選。その後『花園』『鳥』などの作品でシュールレアリズムと宋元画との融合を示す。'42友人と新人画会を結成、日中戦争中、同会展の開催に努めた。'43年3
回目の中国旅行をし、帰国後『自画像』を制作。同年徴兵で大陸戦線に送られ、'46上海で病没した」
戦前から戦中には、一般にはほとんど知られていなかった、いわば「無名の画家」。が、戦後、一
部の美術評論家によってその画業、生き方注目され、紹介されたことから、その名が美術界に広まった。三十八歳、陸軍一等兵で中国で戦病死するまで、独特な画風から画壇の主流には属さなかったことから「異端の画家」と呼ばれたり、戦争中、多くの画家が、戦争を讃えたり、国民の戦意高揚を狙った、いわゆる「戦争画」を描いた中にあって、戦争画を一枚も遺さなかったことから、「抵抗の画家」「暗い谷間の画家」とも呼ばれるようになった。
その後、年を経るごとに、その画業にたいする評価が高まり、「戦争で犠牲になった芸術家の象徴的存在」(東京・練馬区立美術館が一九八八年に発行した『靉光―青春の光と闇―展図録』)といわれるようになった。いまでは、「日本の近代美術に関心のある者ならば、靉光の名を知らない者はいないだろう。靉光は昭和戦前期の前衛美術に、最も存在感のある作家のひとりとして異彩をはなっ
ている」(徳島県立近代美術館学芸員・江川佳秀氏)とされる。とくに『眼のある風景』は「日本におけ
るシュールレアリズム絵画の記念碑的な作品のひとつ」(徳島県立近代美術館が一九九四年に発行
した『靉光 揺れ動く時代の痕跡』)と位置づけられている。
私が靉光に“出会った”のは、一九五九年(昭和三十四年)のことだ。当時、私は朝日新聞社に入
社して二年目、岩手県の盛岡支局員だった。私はここで美術家グループと懇意になったが、この人たちが岩手にゆかりのある二人の画家の遺作展を計画していることを知った。
一人は、盛岡市出身の松本竣介。もう一人が靉光だった。靉光は岩手県出身ではない。広島県壬生町(現在は北広島町)の生まれだ。画家への道を目指して東京に出たあと、岩手県日詰町(現在は紫波町)出身で東京聾唖学校の教師をしていた桃田キヱと知り合い、結婚する。一九三四年(昭
和九年)のことである。
靉光は一九四四年に召集を受け、広島の宇品港から中国へ。キヱは三人の子どもとともに靉光
の郷里の広島に転居するが、原爆投下前に自分の郷里の岩手県日詰町に移る。夫の死の通知はここで受け取る。盛岡の美術家グループが遺作展を計画した狙いの一つは、長く病床にあったキヱ
とその一家を励ましたいということにあった。松本竣介は靉光の親友で、二人はともに新人画会のメ
ンバーだった。
私はこの計画を記事にした。それは、「不遇の画家の遺作展」「遺族の慰めかねて計画」の見出しで、一九五九年四月十一日付の岩手版に載った。
この計画の取材を始めるまで、私はこの画家を知らなかった。しかし、取材の過程で、その絵を見る機会があり、その画風に衝撃を受けた。メッセージ性の強い絵で、彼の訴えが胸に迫ってきた。その短い一生にも興味を覚えた。
記事執筆後もさらにこの画家について調査を続ける中で、遺族とのつきあいも深まった。五年後、
私は東京でこの画家の長女と世帯をもった。
靉光の作品は極端に少ない。とくに油彩は少なく、現存するのは六十五点ぐらいとされる。それ
は、まず、三十八歳という若さで戦病死したから制作期間が非常に短かったということがある。それに、出征前夜、自分の作品を自宅のストーブで燃やしてしまった、ということもある。
加えて、原爆である。広島に投下された原爆によって、当時、広島にあった靉光の絵は灰燼に帰した。おびただしい人間の生命を奪ったばかりか、人類の文化遺産ともいうべき絵画までも破壊し尽く
した原爆。それを使用した戦争指導者に怒りを覚えた。
そればかりでない。靉光の養父母も原爆で被害を被った。靉光は広島県壬生町の農家の六人きょうだいの次男として生まれたが、七歳の時、父の弟の石村梅蔵、アサ夫婦の養子となった。夫婦に子どもがなかったので、養子にと請われたようだ。梅蔵はしょうゆ会社の杜氏で、梅蔵夫婦は広島に住んでいた。そこで、靉光も広島市内へ移り住んだ。
養父母は原爆に遭い、即死は免れたものの、梅蔵は二年後に、アサは四年後にそれぞれ亡くなっ
た。死因はいずれも原爆症といわれている。
私は、新婚旅行の行き先に広島、長崎を選んだ。広島を選んだのは、義父の郷里を見てみたいという思いからだった。妻が幼少の一時期を過ごした広島の地に立ってみたいという思いもあった。そ
して、初めて広島の地を踏んでみて、義父もまた原爆の“被害者”であったと改めて実感したのだった。
そこから長崎まで足を伸ばしたのは「被爆地広島を訪れるのなら、同じ被爆地の長崎まで行ってみよう」という思いつきからだった。
2007年は、靉光生誕100年にあたる。これを記念して、この年にある新聞社による「靉光展」が計画されている。
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