もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第2部 社会部記者の現場から

 第55回 原水禁運動の熱気に圧倒される


東京・夢の島の都立展示館に展示されている
第五福竜丸(撮影・飯田邦生氏。第五福竜丸
平和協会製作のPOST CARDから)




 民主団体担当記者として最も時間を費やしたのは、原水爆禁止運動の取材だった。そうな ったのも当然だったと考える。なぜなら、昔も今も、原水爆禁止運動はわが国で最大の大衆 運動だからである。運動の期間の長さにおいても、運動に加わった人数においても、そして また運動に注ぎ込まれた人々のエネルギーの量においても、これに勝る運動はない。

 原水爆禁止運動とは何か。読んで字のごとし。原爆や水爆、すなわち核兵器の全廃を求 める運動のことだ。最近は、「核兵器廃絶運動」とも呼ばれる。ひところは「反核運動」とも呼 ばれた。
 この運動が始まったのは一九五四年(昭和二十九年)だが、それ以来、社会部にとっては 重要な取材対象の一つで、取材を担当する記者がいた。私は、一九六六年(昭和四十一 年)九月に遊軍の石川巌記者(退職後、軍事リポーター)から担当を引き継いだ。
 取材を引き継いだ時、運動はすでに三つに分裂していた。なぜそうなっていたのか、簡単 に運動の流れをみてみよう。 

 一九五四年三月一日未明、太平洋のビキニ環礁で一発の水爆が爆発した。米国による核 実験の一環だった。当時は、朝鮮戦争で休戦協定が成立した直後だったが、世界は米ソ二 大超大国による東西冷戦のまっただ中で、米ソは激烈な核軍拡競争を繰り広げていた。そ の最中の、より強力な核爆弾の開発を求めての水爆実験であった。
 この実験により、放射能に汚染された「死の灰」が生成され、広範な地域に降り注いだ。爆 発地点から東北へ百六十キロ、危険区域外の海上で操業中だった、静岡県焼津港所属の まぐろ漁船・第五福竜丸(二十三人乗り組み)が、この「死の灰」を浴び、乗組員は急性放射 能症になった。周辺のマーシャル諸島の住民や観測の米兵も「死の灰」を浴びた。これが、 ビキニ被災事件である。

 焼津に帰港した乗組員たちは、東京の東大医学部付属病院と国立第一病院に収容される が、無線長の久保山愛吉さんが同年九月に死亡する。そのうえ、太平洋で獲れたまぐろは 放射能に汚染されているとして廃棄処分となり、食卓からまぐろの刺身が消え、寿司屋もあ がったり。雨に放射能が含まれているから外出時には傘を携行した方がいい、との忠告が 広がるなど、日本列島はパニック状態に陥った。
 世の中が騒然となる中で、東京・杉並区の主婦たちの読書グループ「杉の子会」(指導者 は安井郁・法政大学教授)が「水爆禁止署名」を始めた。家族の食卓を預かり、子どもの健 やかな成長と健康に最も敏感な家庭の主婦が、真っ先に核兵器開発がもたらす危険性に目 覚め、立ち上がったのだった。いわば台所からの告発であった。これが区ぐるみの運動とな り、「水爆禁止署名運動杉並協議会」が発足する。事件から二カ月後の同年五月のことだ。
 この運動はまたたくまに全国に波及する。やがて署名の趣旨は「水爆禁止」でなく「原水爆 禁止」となる。禁止要求の対象に原爆も加わったのだ。
 どうしてか。それは、ビキニ被災事件をきっかけに、日本国民の目が初めて、九年前の、 広島・長崎の原爆被害に向かったからだった。すなわち、敗戦とともに進駐してきた米軍「プ レスコード」(米軍は検閲制度によって米軍に都合の悪い報道を禁じた)によって隠蔽されて いた原爆投下による悲惨極まる被害の実態を、米軍撤退後に起きたビキニ被災事件を契 機に国民大衆が初めて知るところとなったからだった。「こんなにひどい被害だったのか」。 衝撃と憤りが、人々を署名運動に駆り立てた。
 同年八月には、原水爆禁止署名運動全国協議会が結成される。これにより署名運動は国 民的な盛り上がりをみせ、三二〇〇万人を超す。こうした高揚を背景に、翌一九五五年八月 には広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。
 大会で採択された宣言は「私たちは、世界のあらゆる国の人々が、その政党、宗派、社会 体制の相違をこえて、原水爆禁止の運動をさらに強くすすめることを世界の人々に訴えま す」と述べていた。
 大会後、署名運動全国協議会は、原水爆禁止日本協議会(原水協、安井郁・理事長)に衣 替えし、以後、世界大会を毎年、主催するようになる。原水協には、労組、農民団体、平和 団体、宗教団体、青年団体、学生組織、婦人団体、文化団体、著名な学者文化人が加わ り、まさに超党派的な色彩が濃かった。

 しかし、国民的な規模にまで達した運動にも亀裂が生じる。
 導火線となったのは日米安保条約の改定問題だ。原水協が「安保反対」に傾き、社会党や 総評が主導する安保改定阻止国民会議に加わったことで、自民党が原水爆禁止運動を「偽 平和運動」と決めつけるに至り、保守系の人々が離れた。
 さらに、民社党、全日本労働組合会議(全労。一九八七年に解散した全日本労働総同盟 の前身)系の団体が「原水協を中心とした運動はソ連と中共を平和勢力とし、西欧を帝国主 義、戦争勢力とみなす基本的あやまりをおかし、原水禁運動を容共反米運動の一環にして おり、冷たい戦争を激化させることに片棒をかつぐものとなっている。われわれは真に人道 主義的な立場にたって、全国民を包含する正しい運動を展開する」として、核兵器禁止平和 建設国民会議(核禁会議)を結成する。一九六一年のことだ。これには、自民党系の人々も 合流する。
 そのうち、原水協が真っ二つとなる。一九六一年に核実験を再開したことから、原水協内 にきしみが生ずる。原水協に影響力をもつに至った共産党がソ連の核実験を支持する一 方、社会党がこれに抗議したからである。その後、一九六三年の第九回原水爆禁止世界大 会をめぐって、共産党系と社会党・総評系が激突し、社会党・総評系は世界大会をボイコット して別の大会を開き、原水協を脱退する。
 対立点は二つ。一つは「いかなる国問題」。社会党・総評系が「いかなる国の核実験にも反 対する」を世界大会の基調にすべきだと主張したのに対し、共産党系は「『いかなる……』に は賛成する立場も反対する立場もあるという表現を基調とすべきだ」として譲らなかった。
 もう一つは、部分的核実験禁止条約に対する評価。これは世界大会の直前に米英ソ三国 によって仮調印された条約だったが、社会党・総評系が「核兵器全面禁止への第一歩となる から、世界大会で支持しよう」と主張したのに対し、共産党系は「地下核実験の禁止が除外 されている条約を認めることは、米国の核戦争準備を野放しにし、アメリカ帝国主義と戦って いる諸国人民の手をしばることになる」として、反対した。つまり、「絶対平和主義」の立場を とる社会党・総評陣営と、「反帝国主義」の立場をとる共産党陣営の激突だった。
 原水協を抜けた社会党・総評系は一九六五年、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結 成する。原水協では、共産党が圧倒的な影響力をもつに至る。かくして、原水爆禁止運動は 三つの潮流に分裂してしまう。背景にはけわしい東西冷戦、激化する中ソ対立があったと見 ていいだろう。

 すでに述べたように、私がこの運動の取材を引き継いだ一九六六年九月には、運動団体 は原水協、原水禁、核禁会議の三つに分裂していた。とくに原水協と原水禁の対立は激烈 で、そのすさまじさにはただただ驚嘆するばかりだった。
 例えば、お互いに自分たちの運動方針の方が正しいと主張し、相手を非難したが、とりわ け、原水協に影響力をもつ共産党の原水禁攻撃はまことに熾烈で、原水禁を「分裂主義 者」、原水禁の大会を「分裂集会」と呼んだ。
 「協」も「禁」も、それぞれ同じ時期に世界大会を開催したが、同一人物が双方の大会に参 加することを認めなかった。これは海外代表にも適用され、このため、戸惑う海外代表もあ った。海外体表のなかには「協」「禁」の違いがわからず、参加する大会を取り違えるケース もあった。
 対立は、報道陣にも及び、中立的な立場で公平に報道しているのに、どっちよりなんだと勘 ぐられる始末。私の場合、原水禁の事務局に行くと、よく「君のところは原水協寄りの報道だ もんな。われわれの主張もちゃんと報道しろよ」と言われものだ。

 ともあれ、各団体とも、毎年、八月六日、同九日を中心に東京、広島、長崎を結んで世界 大会や集会を開いたが、一年のうちでも最も暑さが厳しい時期にもかかわらず、世界大会や 集会にはうだるような酷暑のなかを全国から参加者がつめかけ、体育館やサッカー場など 広い会場を埋め尽くした。参加者が入りきれず、会場外に溢れたことも。
 原水協の世界大会の参加者には、総評反主流派(共産党系)の労組員、日本民主青年同 盟(民青)の同盟員、新日本婦人の会(新婦人)の会員らが目立った。一方、原水禁の世界 大会は総評主流派(社会党系)と中立労働組合連絡会議(中立労連)傘下の労組員が、核 禁会議の集会は全労の労組員が中心だった。
 このころの会場はどこも冷房がなく、まるで蒸し風呂のようで、みな、汗みどろだった。それ でも、会場には、ほとばしるような熱気とエネルギーが満ちあふれ、「原爆許すまじ」の歌声 がこだました。炎天下を行く平和行進にもおびただしい人々が加わった。
 私は、原水爆禁止を願う国民大衆の熱意に圧倒された。そして、次第にその熱気に引き込 まれていった。





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