もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――
岩垂 弘(ジャーナリスト)
第2部 社会部記者の現場から
潮岬南方500キロの南方定点を漂泊する
定点観測船「おじか」(1966年8月。古川治
写真部員撮影)
九月一日は「二百十日」だった。立春から数えて二百十日目にあたる日だが、ちょうどこの
ころが稲の開花期にあたり、しかも一年のうちで台風襲来が最も多い時期にあたるところか
ら、農家にとっては「二百十日」は厄日、台風に警戒心を高める日となっている。今年もすで
にこの日を中心にいくつもの台風が日本列島に襲来した。
私は、この日を迎えるたびに社会部遊軍時代の経験を思い出す。
「君には、定点観測船に乗ってもらうから」
社会部で遊軍になった途端、小林英司・デスク(次長)=その後、社会部長、編集局次長を
歴任=にこう言い渡された。遊軍になったら、どんな仕事をやらされるかな、と期待していた
のだが、思ってもみなかった仕事を言いわたされてびっくりしてしまった。
社会部では、この年(一九六六年=昭和四十一年)二月から、夕刊一面で新しい企画を始
めていた。「生活記録シリーズ」で、記者が寝食と労働をともにしながら、過酷な自然条件と
社会環境に耐えて働く人びとの生活と人間性を描き、そこに浮かびあがる問題を社会に提
示しようという続き物だった。
第一回は本多勝一記者、鳥光資久写真部員による『北洋――タラ独航船の記録』、第二
回が畠山哲明記者、同写真部員による『ダム』、第三回が有馬真喜子記者、工藤五六写真
部員による『海女』。第四回が『定点観測船』で、その取材が私と古川治写真部員に回ってき
たのだ。
社会部がこのシリーズで定点観測船を取り上げた意図は何か。社会部が作成した企画書
にはこうある。少し長いが引用する。
「定点観測船観測員の生活を取り上げたいと考える。定点観測船は台風観測の最前線に
あって台風や前線の動きを監視し、観測資料を気象庁に送ることを任務としている。毎年五
月上旬から十一月上旬まで四国沖南方約四五〇キロの海上定点(北緯二九度、東経一三
五度)に海上保安庁の巡視船『おじか』『のじま』の二隻が約三週間の交代で観測員を乗り
込ませて配置につくが、観測員のこの間の勤務の苦労は、地上と違って言語に絶するもの
がある。小さな船、オンボロ計器、待遇は悪く、船医もいない。荒天と怒濤にもまれ、血ヘドを
吐きながら苦闘する観測員を支えているのはただ国家的使命感だけである。極めて悪条件
に直面するだけに、これまで定点観測船に新聞記者が同乗したことはないが、台風シーズン
を控え、あえて同船に乗り組み、台風にもまれながら観測員と起居行動をともにし、その生
活と意見、苛烈な生活環境などを強い実感のもとに描き出すことは読者にとっても興味深い
ものと考える」
血ヘドを吐くほどの気象観測の最前線に記者を派遣する。何で私が選ばれたのか、社会
部からは説明がなかったが、おそらく、まだ若くて体が丈夫だから指名されたのだろう、と私
は考えた。「これは大変な取材になりそうだな」と緊張したが、その一方で、「人生って、不思
議な巡り合わせもあるもんだな」との感慨にふけったものだ。というのも、気象観測はそれま
での私にとって縁の深い分野だったからである。
私は長野県岡谷市立北部中学校を出たが、クラブ活動では「気象班」に属し、気象観測に
没頭した。長野県立諏訪清陵高校に進むと「天文部」に入り、気象観測に携わった。したが
って、定点観測船の存在は知っていた。それに乗船することになるとは。
古川写真部員と私が乗った塩釜海上保安部所属の巡視船『おじか』はこの年七月二十九
日、東京を出港。『おじか』は八六一トン。乗組員は海上保安庁から和田実船長以下五十二
人、気象庁から鶴岡保明気象長以下十六人、合わせて六十八人。もちろん、男ばかり。私
たちのほかに、ドクター代理として慶應大学医学部のインターン学生、中野碩夫君が乗船し
た。
翌三十日に“台風銀座”といわれる潮岬南方五百キロの海上の定点に到着。ここに漂泊
して気象観測を続け、八月十六日、東京からやってきた僚船『のじま』と交代し、帰途につく。
翌十七日、東京港に帰着した。
乗船期間は二十日間。この間の見聞と取材結果は九月十二日から十回にわたって、夕刊
一面で連載した。タイトルは『定点観測船 台風とたたかう』。私にとっては、本紙(全国版)で
の初めての連載だった。
連載で何を書いたのか。各回の見出しは@台風接近 進んでシケの中へAシケの恐怖
船酔いなど序の口B定点ボケ 暑さで調子が狂うC海は単調 まるで水上刑務所Dトド船長
責任感の強い豪傑Eサレコウベの歌 遠く家族をしのぶFドクター不在 急病人にお手あ
げGオンボロ計器 軽いシケでもダメH測候精神 刻一刻が真剣勝負I帰港 二十日ぶり
の陸地、だった。
見出しから連載の中身を想像していただけると思うが、私としては、厳しい自然条件下でお
粗末な計器類を武器に気象観測に挑む気象庁職員と、それを支える海上保安庁職員の苦
闘を伝えたつもりだった。世間は、華やかなことや時流に乗る人ばかりに目を向ける。が、
社会を支えているのは目立たない地味な存在の人たちの下積みの労働であることを訴えた
つもりだった。
三十九年前の新聞を引っ張りだして、自分が書いた連載や当時の写真をながめていた
ら、乗船中の体験が鮮やかに甦ってきた。台風接近に伴う、すさまじいばかりの船のピッチ
ング(縦ゆれ)やローリング(横ゆれ)。深い波の谷間で船が木の葉のように翻弄され、体ご
と壁にぶつかったこともあった。そうかと思うと、一転して、とろりと水銀を流したようなベタな
ぎの海。それに、猛烈な暑さと湿気。強烈な日差しはまるで過熱した白金のようで、肌がひり
ひりしたっけ。観測が終わりに近づいたころ、むしょうに生鮮野菜を食べたくなったな。そうい
えば、新聞もテレビもなかった。ただ海と空と太陽だけの単調な生活。なのに、船内では飲
酒は厳禁だったなあ……。ある夜更け、中年の観測員がつぶやいたっけ。「水上刑務所です
よ、ここは」と。
こうした体験も、いまとなっては懐かしい思い出となって甦ってくる。しかし、その一方で、当
時の「苦しみ」も甦ってきて、胸を圧迫し、私を重苦しい気持ちの中に引きずり込む。
「苦しみ」とは、原稿が思うように書けないことから来る苦しみだった。なかなか思うように書
けない。何度も書き直すが満足できない。頭は鉛を詰められたかのように重くなるばかり。
が、締め切りが迫ってくる。ようやく、初回の原稿を書き上げておそるおそる小林デスクに提
出すると、「こんなじゃだめだ」と、つっかえされた。自分の無能ぶりに絶望し、「連載を降りた
い」と思った。が、今さら降りることもできず、また原稿用紙に向かった。
当時、池袋駅の近くのビルの一角に社会部の城北支局があった。私はその一室を借りて
原稿を書いていたのだが、筆が進まないまま、深夜に及んだ。気が付くと、私はひとり室内を
ぐるぐると歩き回っていた。まるで、熊のように。ビルの外を歩いていた通行人は、室内を歩
き回る黒い人影を見て、何をしているんだろうと、けげんに思ったにちがいない。
書き直しの原稿に目を通した小林デスクが言った。「大分、よくなった」。合格だった。その
時、小林デスクが言い添えたことを今でも鮮やかに覚えている。
「新聞の続き物では、第一回、第二回でいかに読者の目を引きつけるかだ。つまり、第一
回、第二回が勝負なのだ。そこで、読者をつかまえることができれば、第三回以降は惰性で
読んでもらえる」
その後、私は続き物を担当するたびに、小林デスクのこの時の発言を反芻したものだ。
定点観測船は一九八一年(昭和五十六年)十一月に廃止となった。富士山頂に気象観測
用レーダーが設置されたり、気象衛星「ひまわり」の運用開始によって、気象庁職員の手作
業による南方定点上の観測が必要でなくなったからである。こうして、一九四七年に就航し
た定点観測船は三十四年間にわたる歴史に終止符をうった。
|
|
|
|