もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第150回 「モンドラゴン」の創始者は神父だった
モンドラゴン協同組合企業体の創始者、ホセ・マリア・アリスメンディアリエタの銅像




 スペインの北部、バスク自治州ギプスコア県のモンドラゴンで産声をあげた小さな工業協同組合が労働者協同組合の先駆的な典型として世界的な注目を集めるまでに発展した背景には、一人の神父の献身的な努力と指導があった。この神父がいなかったら今日の「モンドラゴン」はなかったと言っていいだろう。

 今から五十二年前の一九五六年にモンドラゴンで五人の若者が石油ストーブを製造する協同組合を設立した。五人の名前の頭文字をとって「ULGOR(ウルゴール)」と名づけられた(やがて「FAGOR(ファゴール)」と改称)が、それが、現在のモンドラゴン一帯に展開する協同組合の複合体「モンドラゴン協同組合企業体(MCC)」の前身である。この工業協同組合設立を指導したのがホセ・マリア・アリスメンディアリエタ神父だった。
 
 ホセ・マリア・アリスメンディアリエタは一九一五年、バスク地方のビスカヤ県の農家に生まれた。モンドラゴンのあるギプスコア県の隣県だ。三歳の時、棒で目を突いて左目の視力を失った。十二歳で神学校へ進む。
 一九三六年、スペイン内戦が始まった。当時の人民戦線政府(共和主義者、社会党、共産党などが中心)に対して軍部や右翼勢力が起こした戦争である。まず、フランコ将軍が指揮するモロッコ駐屯軍が反乱を起こしスペイン本土に上陸、人民戦線政府側の労働者や市民との戦いになった。ドイツとイタリアは兵力を送って反乱軍を後押ししたが、フランス、イギリス両国政府は不干渉政策、アメリカ政府は中立の態度をとり、ソ連は人民戦線政府に武器とわずかな人員を送っただけだった。一九三九年、内戦は人民戦線政府側の敗北で終わった。
 ビスカヤ、ギプスコアの両県は人民戦線政府側につき、バスク軍を創設してフランコ反乱軍と戦った。アリスメンディアリエタもバスク軍の従軍記者となった。が、バスク軍の敗北でフランコ反乱軍に捕まり、投獄された。
 その後釈放され、神学校に戻る。やがて、モンドラゴンの教会に派遣される。一九四一年、二十六歳の時だ。

 当時のモンドラゴンは人口九千人。まだ内戦の余燼がくすぶり、町は疲弊しきっていた。フランコ反乱軍に殺された人も多かった。町の現状に心を痛めた神父は「町を再興するには、まず町の経済を活性化しなくてはならない。バスクは資源がないから、人びとが労働することで地域の繁栄を図らねばならない」と考えた。そこで、職業訓練学校を創設し、若者に対する教育を始めた。自身も教壇に立ち、哲学や社会学を教えたが、その中で、人間が連帯することの大切さを説いた。    
 一九五六年、職業訓練学校の卒業生五人が「ウルゴール」を設立すると、それを協同組合として運営するよう勧めた。
 神父は、キリスト者として、神の前では人間は皆平等と考えていた。したがって、人間が人間を搾取する経済システムには否定的だった。MCCの研究者として知られる石塚秀雄氏はかつて私にこう語ったことがある。
 「資本主義は資本が労働に優越する原則をもつために、一方、共産主義は所有権を否定するために、そのいずれにも神父は賛成しませんでした。労働者全員が資本と所有の権利をもつこと、労働と所有の分裂を終わらせることが望ましいと願い、そのためには協同組合方式が一番いいと考えたのです」
 私が現地で会った、MCCの職員研修施設「OTALORA(オタローラ)の責任者ホセ・アントニオ・ゴイチア氏も語った。
 「彼は、世の中を変えなければと考えていました。そのためには、新しいタイプの企業を造らなくてはと考えた。企業にとって大事なのはお金ではなく、労働者だと彼は考えたのです。だから、労働者を企業管理に参加させねば、と考えたのです。そうすれば、企業の能率も上がり、労働者自身も満足感を得られるのではと思ったんですね。そこで、一九五六年に設立された石油ストーブをつくる企業も、労働者自身が管理する企業形態である労働者協同組合として発足させたのです。この結果、労働者は企業を信じ、企業に貢献しようと、よく働いた。良い製品が速くでき、企業は大いに発展しました」

 MCCはさまざまな機能をもつ協同組合を傘下に収めているが、その一つ、「労働金庫」の創設を発案したのも神父だった。これは、いわば銀行で、一九六〇年に創設されたが、当時、「労働者が銀行をもつなんて」と協同組合の幹部から反対の声があがった。が、神父はこれを押し切った。
 その後、労働金庫は協同組合の幹部の予想をはるかに超える役割を果たすことになる。すなわち、MCC傘下の協同組合が金融的に結びつくことで組合相互の連帯が強まったのだ。収益を上げている組合は不振の組合を助けることができた。不況の時は、労働金庫がMCCの支えになった。「労働金庫こそ、互いに援助し合わなくてはならないという神父の哲学を体現したものだったのです」とゴイチア氏。
 私がここを訪ねたころ、労働金庫はスペインで五指に入る預金高を誇る大銀行であった。MCC傘下の協同組合とその組合員への融資ばかりでなく、一般の企業や市民も取引の対象としていた。

 神父が創設した職業訓練学校が多くの優れた技術者を生み出したこともMCC成長の原動力の一つとなった。その学校はその後も続いていて、私が訪れた時は工業専門学校といった印象だった。高校卒業が入学資格で選抜試験があった。四年制で生徒は二千人。MCCからの寄付金、自治州政府、県、町からの助成金、授業料によって運営されているとのことだった。卒業生はMCC傘下の協同組合に就職する。
 その後、工業大学に昇格したと聞いた。
 そればかりでない。一九七四年にはMCCに技術開発研究所「イケルラン」が創設されたが、これも神父の提言によるものだった。

 神父はいつも愛用の自転車で町中を回っていた。酒もたばこもやらなかった。協同組合の発展のために生涯をささげた、と言ってよかった。それでも協同組合の役職につくことはなかった。が、会議には顔を出し、意見を述べた。一九七六年に死没。六十一歳だった。MCC内では神父の銅像や肖像を見かける。いずれも神父を尊敬する組合員の手でつくられたものという。
 それにしても、日本で「生協生みの親」といわれる賀川豊彦もクリスチャンであった。ホセ・マリア・アリスメンディアリエタと賀川豊彦。ともに協同組合史上に画期的な足跡を残したわけだが、二人に共通するのがキリスト教である点が私を強くとらえる。

 できれば、また「モンドラゴン」を訪れてみたいと思う。経済のグローバル化が進んだため、MCCもその後、さらに多国籍企業化を迫られたにちがいないと思うからだ。一九九六年の時点でもMCCはすでにメキシコ、オランダ、チェコ、タイ、モロッコ、エジプト、アルゼンチン、中国、フランス、イギリスの十カ国に工場をもっていた。工業部門の売り上げの四二%が輸出だった。当時よりグローバル化がさらに進展した今、労働者協同組合の聖地・モンドラゴンはどんな変容をみせているだろうか。
                                      (二〇〇八年十月三十一日記)

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