もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第148回 新たな挑戦・労働者協同組合
ゴミのリサイクルを始めた玉村中高年雇用福祉事業団の作業現場(1987年、群馬県玉村町で)




 協同組合には農協、漁協、森林組合、信用組合、共済組合、生協などがあるが、私がこれまでひときわ関心を持ち続けたのは生協に対してである。その理由はすでに述べた通りだが、ほかにも関心を持ち続けてきた協同組合がある。労働者協同組合だ。
 労働者協同組合とは、一言でいえば、働く者が出資し合い、協同で経営する企業のことである。一般の企業は、資本家と労働者がいて、資本家が労働者を雇い、賃金を払って働かせるという形態をとるが、労働者協同組合は労働者自身が資本家であり、経営者であり、労働者であるという形をとる。いうなれば「労働者が主人公の企業」である。

 ヨーロッパでは、労働者協同組合の歴史は古い。いまでもその活動は続いており、とくにスペイン、イタリア、フランス、イギリス、南米各国で盛んだ。
 日本における起源は第二次世界大戦前にまでさかのぼるが、いずれも長続きせず、今日の労働者協同組合は一九七〇年代に産声を上げたものだ。したがって、日本では新しいタイプの協同組合といってよい。

 一九七〇年代に誕生することになったきっかけは、失業対策事業の打ち切りだった。第二次大戦後、日本には失業者に働き口を提供するための失業対策事業があった。自治体が事業主体となって土木・建設事業を行い、そこに失業者を吸収することで失業者に就労の機会を提供するというものであった。多数の失業者がこの事業に就労し、一九五八年には三十五万人に達した。
 が、政府・自民党は「非能率」「滞留」(いったん就労するとなかなかやめないという意味)を理由に事業を打ち切る方針を決め、一九六三年、職安法及び緊急失対法改正案を失対事業就労者や野党の激しい反対を押し切って国会で強行採決。この結果、七一年以降は失対事業の入り口が閉ざされ、新たな就労が認められなくなった。このため、各地で失対事業からあぶれた失業者が続出した。その多くは中高年齢者だった。
 そこで、当時、失対事業就労者の労組だった全日本自由労働組合(全日自労。その後、他労組と合併を繰り返して全日本建設交運一般労働組合=建交労となる)は、自治体に向けて「仕事よこせ」の運動を起こすとともに、自治体から公共事業を請け負うための企業(当時は事業団と名乗った)を自ら設立し、これに失業者を吸収するという新たな方式を編み出した。一九七一年のことである。日本の労働界にあってはまことにユニークで創造的な試みであった。

 事業団が最初につくられたのは兵庫県西宮市で、その後、京都、愛知、東京にもつくられた。失業対策事業への就労を拒否された失業者、いわば追いつめられ、せっぱ詰まった労働者たちが日々の糧を得るために自らの手で就労の機会、雇用の場を創り出していったのだった。
 事業団の設立は各地に伝播した。一九七九年には三十六の事業団の代表が熱海市に集まって事業団の全国組織「中高年雇用・福祉事業団全国協議会」を結成した。そのうち、事業団を協同組合の一つ、労働者協同組合と位置づける方向が協議会内で強まり、それに伴って一九八六年には名称を「中高年雇用・福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会」と変えた。さらに、一九九三年には「日本労働者協同組合連合会」と改めた。
 この事業団方式を生み出し、全国に広げてゆくうえで強力なイニシアティブを発揮したのは中西五洲氏である。同氏は全日自労の委員長を務めたあと、中高年雇用・福祉事業団全国協議会、中高年雇用・福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会、日本労働者協同組合連合会の各理事長を務めた。
 
 事業団=労働者協同組合の事業内容は、公園の管理・緑化事業、病院のメンテナンス、ビル・メンテナンス、建築・土木、生協での商品の仕分けや輸送、ホームヘルプ・家事援助などの福祉事業、給食や食堂・売店の経営、資源リサイクルなどといったものだった。受注先は官公庁と民間。が、二〇〇〇年に介護保険制度がスタートしてからは、介護に関する事業にウェートが移った。二〇〇六年三月末現在で組合員は四万三〇〇〇人、就労組合員は九三八八人、加盟組織は四六団体、年間事業高は二一三億円。
 
 事業団=労働者協同組合の活動はすでに二十七年の歴史を刻んできたわけだが、同連合会がこのところずっと精力的に取り組んでいるのが「協同出資・協同経営で働く協同組合法」の制定運動である。農協、漁協、漁協、生協など既存の協同組合には、いずれもそれに関する法律があるが、労働者協同組合には、いまだにそれを律する法律がない。このため、労働者協同組合を設立しても人格のない社団(任意団体)にとどまらざるをえず、事業の遂行にあたって不利な点があるという。例えば、人格のない社団では各種の契約を結べないほか、官公庁との契約でも不利な立場におかれるし、税制面でも協同組合でないので一般の企業並みの課税となる。このため、労働者協同組合を他の協同組合並みに法制上位置づけてもらいたいというわけである。

 私が労働者協同組合に注目し始めたのは一九八六年からだ。なぜなら、「中高年雇用・福祉事業団(労働者協同組合)全国連合会」という組織の存在を知った時、労働者協同組合の試みが、労働運動に関心を持ち続けてきた私の目に極めて新鮮なものに映ったからである。とりわけ、二つの点が私をとらえた。
 一つは労働者が自らの意思で、それも互いに力を合わせて働く場を創り出したという点だった。日本人には、昔から自主的に行動を起こすという習性が乏しく、しかも、この国はあらゆる面で「競争」が貫徹している社会で、「協同」してことにあたるという志向が弱いな、と日ごろ感じていたから、労働者の自主性と協同を根底にすえた労働者協同組合という新しいスタイルの労働者の運動に大いに興味をそそられた。
 もう一つは、労働者自身が出資し、管理し、働くという企業形態であった。ということは、ここでは雇う者(資本家)も雇われる者(労働者)もないということだ。いわば労働者による自主管理企業といってよい。いまさら言うまでもないことだが、資本主義社会は雇う者と雇われる者とで成り立っている。が、ここには、人間が人間を搾取するという資本主義の基本的構図がない。私にとっては、まさに目を見張るような一つの発見であった。

 このように、私が当初、事業団=労働者協同組合に関心を抱いたのは、どちらかというと、それが「労働者による自主管理企業」的性格をもっていたからだった。が、その後、それが協同組合の一種であるとの見方に接してからは、協同組合の視点から、これを見てゆく立場に変わった。そして、ある文献に出合ったのを契機に、私は従来にも増して事業団=労働者協同組に対する関心を高めることになった。その文献とは、アレキサンダー・F・レイドロウ博士(元カナダ協同組合中央会参事)の『西暦2000年における協同組合』(日本生活協同組合連合会刊)であった。
 これは、国際協同組合同盟(ICA)からの要請に応じてレイドロウ博士が一九八〇年に執筆したICAへの提言で、新しい世紀における協同組合のあり方を論じたものだった。博士は「将来の選択」として、協同組合が取り組むべき四つの優先分野を挙げていたが、第二の優先分野に挙げていたのが「生産的労働のための協同組合」で、以下のように述べていた。
 「過去20年間における世界の協同組合にとっての、最も重要かつ大きな変化は、労働者協同組合に関する概念の全面的な回復であった。過去75年あるいはそれ以上、それとなく無視されてきたが、多くの協同組合人の心の中に尊敬の念をもって迎えられるようになったのである。今世紀の残りの期間、労働者協同組合に多くの期待が寄せられている。食糧についで、新しい社会秩序のために世界の協同組合が貢献し得る最大の分野は、各種の労働者生産協同組合における雇用の問題であるといわれている。19世紀の終わりから20世紀の初期にかけて労働者協同組合は不遇で、多くの組合は挫折し、路傍に散っていった」
 「ところが、1950年代になって、いくつかのヨーロッパ諸国や第三世界でも、方向転換が見られるようになった。複雑な産業開発の新たな段階で、労働者協同組合がスペインのモンドラゴン工業団地に出現したのである。各国の政府は病める資本主義産業救済のために、この協同組合に注目しはじめた」
 「労働者協同組合の再生は、第二次産業革命を意味するのだと予想することもできる」

 労働者協同組合が果たす役割に対しなんという高い評価であろうか。これから果たしうる役割に対しなんという高い期待であろうか。「労働者協同組合の再生は、第二次産業革命を意味する」という記述に至ってはただただ驚くばかりだった。私が、日本で生まれた事業団活動に注目していち早く報道したのも間違っていなかったのだ、と私は内心、自画自賛したものである。
                                      (二〇〇八年九月十六日記)

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