もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第140回 この目で見た東ドイツの印象
マルクス(左)とエンゲルスの像=1991年10月20日、東ベルリンで写す
ブランデンブルク門=1991年10月20日、東ベルリンで写す




 一九八九年(平成元年)十一月九日の「ベルリンの壁崩壊」をきっかけに東欧の社会主義政権が将棋倒しのように次々と崩壊したのを受けて、朝日新聞社は一九九〇年四月十日から十五回にわたって朝刊で『インタビュー・どうなる社会主義』を連載した。政治家や経済人、哲学者、評論家、研究者ら十五人にソ連・東欧圏の激動の背景と社会主義の将来について語らせた企画だった。

 このインタビューは、新妻義輔・外報部部長代理(前モスクワ支局長)、森信二郎・外報部次長(前モスクワ支局員)、それに私の三人で担当したが、私はインタビューに携わるうちに、一度この目で激動の舞台・東欧を見なくては、との思いが募っていった。それまで、ソ連には三回も行っていたが、東欧諸国を訪問したことはまだなかったからだ。
 会社に出張を申請しても認められそうもない。「それなら自費で見てこよう」と、旅行会社の観光ツアーに参加した。期間はこの年の四月二十九日から五月七日までの九日間。コースは成田―東独の東ベルリン―西独の西ベルリン―ミュンヘン―オーストリアのザルツブルク―ウィーン―東ベルリン―ライプチヒ―東ベルリン―成田。
 要するに、「ベルリンの壁崩壊」から半年後の東独の東ベルリンとライプチヒを垣間見ることができたというわけだった。東欧社会主義政権の優等生といわれた東独のほんの一部をチラッと見たに過ぎなかったが、私にとってはそれなりに収穫のある旅となった。

 「ベルリンの壁崩壊」から六カ月後の東ベルリンは、いたって平穏だった。民主化を要求する東ベルリン市民による激しいデモがあったなんて信じられないくらい静かだった。この時は、まだ東独という国が存在していて、街全体は、ソ連でも感じたような、なんとなく几帳面で硬質な雰囲気に包まれていたが、その一方で、街のあちこちで、「西独との統一」が間近いことを感じさせる、伸びやかな、はずんだ空気も感じられた。
 激動の一端を感じさせるものといえば、東西ベルリンの境界に立つブランデンブルク門のかたわらで、砕かれた壁の一部が売られていることぐらいだった。私は、その一個を若者から買った。それは、いまでも私の書斎の本棚の隅にある。

 その小さな壁の破片を眺めていたら、『インタビュー・どうなる社会主義』に登場ねがった田口富久治・名古屋大学教授(政治学専攻)の発言が頭に浮かんできた。それは、すでに紹介したが、「一九三〇年代にソ連で出来上がった政治経済の体制をスターリン体制と呼びますが、それが第二次大戦後、冷戦の激化の結果として、衛星国小型スターリン体制として東欧にできてゆく。要するに、そうした衛星国小型スターリン体制とか国権型社会主義とかいわれていた体制がここで崩壊したと、こういうことだと思うんです」というものだった。
 要するに、東欧の諸政権は虚構の政権だった。もともと各国の民衆自らの手でつくられた政権でなくて、第二次世界大戦下でソ連軍が進駐してきて、そのもとでソ連が打ち立てた政権だった。ソ連の占領下でできた政権だったから、ソ連が手を引けばいとも簡単に倒れてしまいかねない脆弱性をもっていた。現に、ソ連が手を引いたので、それまで不満をもっていた市民がいっせいに立ち上がり、権力を握った。それが東欧革命の構図だ――田口教授が言いたかったのはそういうことだったろう。
 
 東ベルリン市内を歩きながら、私は考えた。こうした虚構の政権を支えていたものはいったい何だったのかと。一つはソ連軍であったろう。もう一つ、内側から支えたものがあり、それは秘密警察ではなかったか、と私は思った。これが強力な権限をもっていて、国民を支配し、共産党政権を支えていたのではないか。私には、そう思えた。
 それは、現地で聞いたこの国の秘密警察の実態が、私の想像を超えたものだったからである。現地で聞いたところによると、東独には六〇〇万人分のファイルがあるとのことだった。すなわち、六〇〇万人が秘密警察の監視下にあったというのだ。東独の人口は一六〇〇万人だから、ざっと国民の三人に一人が秘密警察に監視され、その動向が記録されていたことになる。
 こんなことは、秘密警察だけではできまい。おそらく、秘密警察に協力した人もいたに違いない。そのファイルはまだ残っていて、見ることができると聞いた。だから、だれが密告したかがわかるらしい、との話だった。密告によって成り立っていた社会。互いに信頼関係がないわけだから、そんな社会はやはり崩壊せざるをえなかったのだ。私には、そう思えた。
 あるドイツ人と話す機会があった。私は彼にストレートに聞いてみた。「どうして東独の政権は崩れたんですか」と。彼は言った。「経済的に不満があったというよりは、結局、自由が欲しかったんですよ」。そこで、「どういう自由が欲しかったんですか」と尋ねると、彼はこう答えた。「ものが自由に言える自由が欲しかった。それに、自分がやりたいことを自由にできる自由だね」
 (二〇〇七年、日本でドイツ映画『善き人のためのソナタ』が公開された。劇作家とその恋人の動静を盗聴するよう命じられた東独の秘密警察員が、盗聴を続けるうちに自由、愛に目覚めてゆく物語で、実に感動的な名作だった。これを映画館で観ながら、私は十七年前の東ベルリン訪問を思い出していた)

 この年(一九九〇年)十月一日、ドイツが国家統一を回復した。西独が東独を吸収するような形での東西統一だった。「ベルリンの壁崩壊」から一年足らず。それは、世界のおおかたの予想よりも速いテンポでの国家統一だった。これも「もう過去のことは早く忘れたい」という東独国民の気持ちの反映だったかもしれない。

 私は、東独訪問から約一年半後の一九九一年十月、思いもかけず再び東ベルリンの地を踏むことになる。国際協同組合同盟(ICA)の中央委員会が東ベルリンで開かれたため、その取材でここを再び訪れる機会が巡ってきたのである。この時は六日間滞在し、その間、東ベルリン地区を見学したが、統一から一年の街の雰囲気は一年前よりぐんと陽気になり、商店、ホテルなども活気づいていた。
 街の一角に「マルクス・エンゲルス広場」があり、旧東独時代に建てられたと思われるマルクスとエンゲルスの銅像があった。私が訪れたときは、他に訪れる人もなく、広場は閑散としていた。銅像の一部が赤い。近づいて見ると、赤いペンキが塗られていた。いたずらのようだった。マルクスとエンゲルスが悲しい表情を浮かべているように私には見えた。

 ソ連が消滅したのは、それから二カ月後のことである。
                                         (二〇〇八年四月十七日記)

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