もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第133回 人間肯定をもたらした自然と人――世界の秘境・チベットへE
文革によって破壊されたガンデン寺。一部で再建が始まっていた。左が筆者、右は案内してくれたチベット人運転手(1986年5月、ラサ東方で)

チベットの寺院。いつも地元民や巡礼の姿がみられた(中国・ネパール友好道路の沿線で)




 一九八六年(昭和)四月十六日に車二台で中国青海省の首都、西寧市を出発した東北大学日中友好西蔵学術登山隊学術班人文班は、五月二十五日、ヒマラヤ山脈を越え、中国・ネパール国境の町、ザンムに到着。ここに二泊後の同二十七日、国境を越えてネパールのカトマンズに入った。行程約六二〇〇キロ、四十二日間にわたる青海・チベットの旅であった。

 学術班人文班の目的はチベットにおける学術調査だったが、その成果は一冊の報告書にまとめられた。一九八九年に小学館から刊行された色川大吉編『チベット・曼茶羅の世界――その芸術・宗教・生活』である。その中に、私の報告『日本と対極の世界・チベット』も収録されている。
 人文班による学術調査のテーマの一つに、「もう一つのシルクロード(絹の道)」の検証があった。すでに述べたように、これは人文班班長の色川大吉氏が長年あたためていたテーマだった。
 シルクロードとは、太古以来、アジアとヨーロッパ、北アフリカを結んでいた東西交通路のことで、一般的には中国の北西部、現在の陝西、甘粛付近から新彊ウイグル自治区のタリム盆地を通り、ロシア(旧ソ連)、中国、インド、パキスタン、アフガニスタンが国境を接するパミール高原を越える道を指す。
 これに対し、色川氏は一つの仮説を抱いてきた。それは、これとは別に「もう一つのシルクロード」、すなわち「縦のシルクロード」があったのではとの推論だ。具体的には、七世紀から九世紀にかけて、中国の長安(いまの西安)とチベットのラサ、さらにラサからネパール・インドを結んだ交通路があったのではないか、というものだ。年代でいえば、チベットの最初の統一王朝・吐蕃王朝の時代ではないか。同氏としては、これを現地で確かめてみたいというわけだった。
 結果はどうだったか。色川氏によれば、仮説のうちの時代設定、すなわち「七世紀から九世紀にかけて」という点はほとんど確認できなかった。その代わり、「十六世紀から十七世紀にかけて中国―ラサ―インドを結ぶ文明交流路があった」との新たな見方を強めたという。
 色川氏にそう思わせたのは、ポタラ宮とセラ寺にあった壁画だ。色川氏によると、それらの壁画に描かれている人物の風俗や絵画技術といった面に、十六世紀から十七世紀にかけての中国、インド、トルコなどの文化からの影響がみられたという。 

 人文班の同行記者であった私の役割は、もちろん人文班の調査作業を伝えることにあったが、それだけではなかった。登山隊の“壮挙”を伝えることもまた重要な役割だった。
 登山隊(隊長、葛西森夫東北大名誉教授、十一人)が登頂を目指したのは青海省とチベット自治区にまたがる青蔵高原の最高峰で未踏峰のニェンチンタングラ峰(七、一六二メートル)だった。
 登山隊の予定では、五月一日に第一次登頂、同三日に第二次登頂とされていた。これに備えて、私たち人文班は四月三十日にラサに入った。登頂成功をラサから日本へ発信するためである。が、ラサのホテルに滞在して待てど暮らせど登頂成功の知らせが登山隊から届かない。後で判明したことだが、これは登頂作業が強風、降雪、雷といった悪天候でひどく難航していたからで、結局、「初登頂成功」の吉報が下山してきた登山隊員から私たちにもたらされたのは九日夜のことだった(登頂は八日午後九時過ぎ)。人文班のメンバーは「やった、やった」と手を打って喜び、祝杯をあげた。
 私にとっては、それからが大変であった。原稿を送るべく朝日新聞の北京支局に電話を入れても出ない。ならばと東京に電話を入れてもなかなか出ない。ようやく東京本社とつながったのは十日朝であった。急いで原稿を読み上げようとすると、「もう朝刊に出ているよ」と社会部のデスク。
 私は茫然としてしまった。事情を質すと、こうだった。登頂の事実は登山隊の中国側スタッフから北京の中国登山協会に伝えられ、同協会は電報で東北大学に通報、同大学はこれを九日夜に各新聞社に発表したのだった。
 わざわざ死ぬような思いでチベットまで来ながら、登頂の第一報をチベットから送れなかったことが悔やまれた。「これでは同行記者失格だな」。全身から力が抜けてゆくようだった。「それもこれも、北京に電話が通じなかったことと、東京に入れた電話が早く出なかったためだ」と、チベットの電話事情の悪さを恨んだ。
 登山隊が苦闘の末に初登頂に成功した記録は、東北大学山の会編『チベット高原の盟主―ニェンチェンタンラ―』として同会から一九九四年に発行されている。

 ところで、すでに述べたように、同行記者の私には私なりの「チベット行き」の理由があった。世界の秘境を踏んでみたいという願望のほかに、原水爆禁止運動の取材を通じて人間の醜い、嫌な面を見せつけられ、すっかり「人間不信」「人間嫌い」に陥ってしまったことから、とにかく日本社会から人間のいない大自然へ脱出したいという思いに駆られたからだった。
 青海・チベットの旅から帰った私は「人間賛歌」とまでは行かないが、一転して「人間肯定」に変わっていた。
 青海・チベットの大自然、例えようもないほど高くて巨大な山脈や山塊の連なり、果てしなく続く高原や広漠たる砂漠を目にしたとき、宇宙全体からみれば人間の営みなんて実にちまちましたちっぽけなものに思えてきたのである。まして、地球の片隅、日本の一つの大衆運動における一部の人間の非人間的な言動など、宇宙全体からみれば実に卑小でつまらないものに思えてきたのだ。つまり、青海・チベットの大自然に接して、世界と人間を見る視野が広がったということであろうか。私の心の中に重く沈んでいた「人間不信」が、いつのまにかまるで霧が晴れるように消滅していた。

 それから、旅を通じて垣間見たチベットの人たちの生き方が私に大きな影響を与えたように思う。短い間であったが、私がチベット人の生活ぶりに接して感じたのは「目の前の現実世界を何から何まで丸ごと受け止める。それが、チベットの人たちの日常の生活態度ではないか」ということだった。すなわち、自然からの恵みも、自然の猛威も、はたまた人間の善も悪も、あらゆることをそのまま従容と受け止める。そこに流れているのは、自然と生きとし生けるものの存在をすべて肯定する敬虔な姿勢ではないか、と私には思われたのである。そうした生活態度が彼らの信仰する仏教と関係があるのか、ないのか、私には分からなかった。ただ、そうした人々の生き方をこの目で見たとき、私の内部に人間を多面的な面をもつ存在として肯定しようという思いがわき上がってきたのだ。もっとおおらかな目で人間の全般を見つめようという気持ちが生じてきたのである。寛容になったとうことであろうか。
 さらに、文革によって破壊された寺院がチベットの人々の手で再建されつつあったことも私に強い印象を与えた。破壊されたものを再びよみがえらせようとする人間のひたむきな努力。そこに、私は人間の不屈の営みを見た。それは、私の中で「人間肯定」につながっていった。
 こうして、青海・チベットの旅は、私に「心の転回」をもたらしたのだった。

 それにしても、チベットとは不思議なところだ。私は、青海・チベット紀行の後、不思議な体験を一度ならず二度も体験することになる。
 八六年の東北大学日中友好西蔵学術登山隊学術班人文班の学術調査に同行記者としてチベット入りを果たしたとき、私は「生きているうちにもう二度とチベットへ来ることはないだろう」と思い、目前の風景、光景を脳裏に深く焼き付けようと努めたものだ。ところが、まもなく、二度目のチベット訪問を果たすことになる。というのは、朝日新聞社が、ポタラ宮に収蔵されている文物を紹介する「中国チベット秘宝展」を八八年七月から、東京、兵庫県尼崎市、静岡県浜松市で開催することになり、その事前紹介のために私がラサに派遣されることになったのだ。
 私は六月十九日から二十九日まで、山口瑞鳳・名古屋大学教授(チベット学)と奥山直司・東北大学文学部助手(仏教史)とともにラサ訪れた。奥山助手は東北大学人文班の調査でいっしょだった人だ。今度は空路でラサに入った。
 二年ぶりのチベットに胸が高鳴った。ラサでポタラ宮と再会した私は「再びラサに来ることができたなんて奇蹟だ」と感無量だった。そして、こう思ったものである。「これは、チベットの仏さまの計らいなんだ、きっと」
 
 奇蹟は続いて起こった。ラサ滞在中、私はデプン寺を訪れた。ここも再訪であった。境内を歩いていると、会ったことのある女性が前方から歩いてきて、わが眼を疑った。なんと、二年前、東北大学人文班の他のメンバーといっしょにラサ滞在中に訪れた、ラサ中心街に住むチベット人一家の若い奥さんだった。あまりにも偶然の再会に私は言葉を失った。「地球上に暮らす人間は六十億以上。ひょんなことで知り合った、その中の二人、しかも日本とチベットという遠くかけ離れたところに住む両人が、偶然再会を果たすなんていうことはこの世にありうることだろうか」。私には、なんとも神秘的な出会いに思えて仕方がなかった。
 二年前に会った時、女性は幼い男児といっしょだった。しかし、今回は一人。「あの男の子は」と尋ねると、「高僧の生まれ変わりと認められ、お寺に引き取られた」とのこと。チベットでは、特定の幼児が高僧の生まれ変わり、つまり活仏とされて、親の元から寺に連れてゆかれることがあると聞いていた。かつてその家庭を訪ねたことのある、目の前の女性がそうした経験の持ち主と知って、やはりそういうことが本当にあるのだ、と私は驚いた。
                                     (二〇〇七年十二月三十日記)

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