もの書きを目指す人びとへ
――わが体験的マスコミ論――

                 岩垂 弘(ジャーナリスト)
  
   第3部 編集委員として

 第121回 87年間埋もれていた民衆憲法

五日市憲法草案が発見された深沢家土蔵。東京都の文化財に指定されている(1987年11月、あきる野市深沢で)




 一九八〇年(昭和五十五年)から八七年(同六十二年)にかけて全国で繰り広げられた自由民権百年の運動の功績の一つは、明治の自由民権期に起草された民間の憲法草案(私擬憲法草案という)の存在を、一般市民に認識させたことだろう。

 明治維新後の日本には、まだ憲法がなかった。だから、憲法を制定せよ、というのが当時の民権派の要求の一つだったわけだが、民権派自身による憲法草案づくりがにわかに熱気をおびたのは、一八八〇年(明治十三年)十一月に東京で開かれた、民権派の国会期成同盟第二回大会の決議がきっかけだった。その決議には「明治十四年十月一日より東京で再び会議を開く」「次の会までに、憲法見込み案を持参すべし」とあった。国会期成同盟会としては、憲法見込み案を持ち寄った人や団体で「日本憲法議会」を開き、そこで統一した憲法草案をつくり、天皇の允可を得て公布、その憲法に基づいて国会議員を選出し、国会を開設する――といった段取りを考えていた。このため、各府県の代表はそれぞれの郷里に帰り、自らの手で次々と憲法草案の起草にとりかかったのである。
 
 一八八〇年から八一年にかけての時期をピークに自由民権期に起草された私擬憲法草案は約四十とも約五十ともいわれている。これは、これまでに発見されたものの数で実際にはもっと多かったのではないか、とみられている。当時の日本の総人口は三千五百余万。憲法を起草する運動が国民の中に燎原の火のように広がって行ったようで、まさに“憲法起草ブーム”ともいうべき様相だった。
 だが、こうしたブームも不発に終わる。政府が民権派に先手を打って、八一年十月に「明治二十三年(一八九〇年)に国会を開設する」との詔勅を発し、民権派による憲法審議を禁じたからだった。憲法は欽定憲法として発布されることになったのだ。 

 ところで、自由民権期に民間で起草された憲法草案の中には、極めて民主的な内容を備えたものがあり、中には今日の日本国憲法を上回る民主的な規定をもつ憲法草案さえあるとされている。そうした憲法草案に、私としては三つの草案をあげたいと思う。 

 まず、「五日市憲法草案」である。一九六八年(昭和四十八年)、東京経済大学の色川大吉教授と色川ゼミの学生、新井勝紘氏(現専修大学教授)が、東京都の西部、西多摩郡五日市町(現あきる野市)深沢にある崩れかかった土蔵で、古びた憲法草案を発見した。色川教授は、当時、自由民権運動に関する資料を求めて、多摩地区の古い土蔵を片っ端から開ける、といった研究活動を続けていたが、山深い谷間にある深沢家土蔵で、偶然、これを見つけたのだった。それは、「日本帝国憲法」と題され、二十四枚つづりの和紙に毛筆で書かれていた。全文二〇四条で、日本国憲法(一〇三条)より長い。
 色川氏らの研究で、これが起草された経緯が明らかになった。それによると、多摩地区は自由民権運動が最も高揚した地域の一つで、民権家の往来も激しかった。そんな空気の中で、一八八〇年(明治十三年)に五日市町と周辺の村々の有力者によって学習結社「五日市学芸講談会」が結成される。メンバーは約四十人。指導的立場にいたのは千葉卓三郎と深沢権八。千葉は宮城県栗原郡志波姫町(現栗原市)出身。仙台藩の下級武士の子で、戊辰戦争で官軍と戦って敗走。放浪の末、五日市にきて小学校の助教員になった。当時二十八歳。権八は深沢村の戸長・深沢名生の長男で、当時十九歳。
 彼らは、日夜、新生日本のあるべき姿について激論を交わした。その結果、翌八一年(明治十四年)、一編の憲法草案が生まれた。起草者は千葉。これが「日本帝国憲法」であった。色川氏らはこれを「五日市憲法草案」と命名した。

 色川、新井氏によると、五日市憲法草案は、自由民権期の他の憲法草案に比べて際だった特徴をもつ。一つは、他の草案の多くが著名な政治家やジャーナリストによって起草されたのに対し、「五日市」は名もなき民衆の集団討議の所産であった点だ。まさに「民衆憲法」の名にふさわしいといえる。
 もう一つは、人権に関する規定が精細かつ周到な点である。
 例えば「日本国民ハ、各自ノ権利自由ヲ達ス可シ。他ヨリ妨害ス可ラズ。且国法之ヲ保護ス可シ」(四五条)は基本的人権の原理とその不可侵性をうたったものといえるだろう。しかも、こうした原理に立ち、三十六カ条にもわたって権力からの干渉、迫害から個人の人権を守るための規定を展開している。
 「凡ソ日本国民ハ、法律ヲ遵守スルニ於テハ、万事ニ就キ予メ検閲ヲ受クルコトナク、自由ニ其思想、意見、論説、図絵ヲ著述シ、之ヲ出版頒行シ、或ハ公衆ニ対シ講談、討論、演説シ、以テ之ヲ公ニスルコトヲ得ベシ。但シ其弊害ヲ抑制スルニ須要ナル処分ヲ定メタルノ法律ニ対シテハ、其責罰ヲ受任ス可シ」(五一条)
 「凡ソ日本国民ハ、法律ニ定メタル時機ニ際シ法律ニ定示セル規程ニ循拠スルニ非レバ、之ヲ拘引、招喚、囚捕、禁獄、或ハ強テ其住屋戸鎖ヲ打開スルコトヲ得ズ」(六〇条)
 このように、人権を守る規定が多いのは、色川氏らによれば、起草者の千葉の経験に基づくという。すなわち、戊辰戦争に敗れて放浪中、新政府に投獄され、辛酸をなめた。そうした経験が、千葉をして人権保障を重視する憲法に向かわせたのでは、というのだ。

 現行憲法を上回る規定も少なくない。「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ。府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルガ故ニ、必ラズ之ニ干渉妨害ス可ラズ。其権域ハ国会ト雖ドモ之ヲ侵ス可ラザル者トス」(七七条)などはその一例だろう。完全な地方自治の保障である。

 百二十余年も前に、草深い山村で、このような高い水準の憲法が民衆によって構想されていたとは、驚きである。しかし、こうした草案も世に知られることもないまま、起草直後に歴史の闇に埋もれてしまう。そして、深沢家土蔵に眠っていた草案が色川、新井氏らによって発見されたのは、奇しくも「明治百年」にあたる一九六八年であった。起草から実に八七年がたっていた。

 私は、東京経済大学に保管されていた五日市憲法草案の実物をこの目で見た。条文を目で追いながら、その豊富な人権保障規定にいまさらながら心動かされた。憲法制定に寄せた五日市学芸講談会のメンバーの熱い思いが伝わってきた。草案が眠っていた五日市町の深沢家土蔵を何度も訪ね、また、千葉卓三郎の郷里、志波姫町も訪れた。そうした取材をもとに、五日市憲法草案の存在を、一九八一年十一月二十二日付の朝日新聞日曜版の「日本史の舞台」に「五日市 うずもれた民衆憲法」と題して紹介した。

(二〇〇七年八月二十三日記)


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